1946年(昭和二十一年)5月9日は、最後のイタリア国王ウンベルト2世が即位した日です。
現在のイタリアは共和国ですし、そもそもイタリアというと王様よりローマ帝国=皇帝のイメージが強いですよね。だいぶ時代は違いますが。
一体どのような経緯があったのか。
近現代史はピンポイントで見ると複雑すぎてわかりにくいことが多いので、もうちょっと前から話を始めましょう。
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19世紀まで各地方がバラバラだったイタリア
イタリアは、現在でも地方ごとの特色が強い国です。
それもそのはず、19世紀まで各地方がバラバラといっても過言ではない状態でした。
北部は都市国家が多く、オーストリアやフランスに取ったり取られたりしていましたし、南部はスペイン系の王族による統治が続いていたのです。
それを一つにまとめたのが、地中海北部にあったサルデーニャ王国でした。
この辺のことは「イタリア統一運動(リソルジメント)」と呼ばれます。
そして、統一の中心となったサルデーニャ王国の王様であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア全体の国王となりました。
ここで新たに、3つの問題が生まれます。
ひとつは、軍隊の再編成による、失業者の大量発生でした。
明治維新のようですね。
元軍人たちは匪賊となって、裕福な地主などから略奪を行って生活するようになっていきます。しかしこれが大衆にウケたため、しばらくの間活動していました。
もちろん政府としては完全放置というワケにもいきませんから、2年ほどの間に匪賊の取り締まりを強めます。
生活が苦しくなった匪賊たちは、やがて資産家以外の一般人を襲うようになり、当然支持を失っていきます。なぜ気づかなかったし。
そして内通者が現れて一網打尽となりました。
普仏戦争に乗じてローマへ遷都 しかしバチカンが……
2つめの問題は、領土です。
上記の通り、イタリアは長く他国の影響を受けていたため、領地回復は悲願ともいえるものでした。
そこで1866年にプロイセン側で普墺戦争(ふおうせんそう)に介入し、イタリア王国が成立した後もオーストリアが領有していた「未回収のイタリア」と呼ばれる地域を取り戻そうとします。
普墺戦争に介入したことで、ヴェネト地方(ヴェネツィアあたり)の大部分を取り戻すことに成功しましたが、まだ完全ではありませんでした。
そして3つめの問題が、ローマ教皇との関係です。
現在のバチカン市国は、ローマ市内にある世界一小さな国ですが、この頃まではもっと広い領地を持っていました。
イタリア王国としてはローマを手中に収めたい――。
されど教皇の警護にはフランス軍が駐在していたので、そう簡単に手を出せなかったのです。
1870年に普仏戦争が勃発したため、フランス軍は本国に撤退。
これを好機と見たイタリア王国政府は教皇領を占領し、ローマへの遷都を決めます。
これに対し、領地をぶん取られたローマ教皇・ピウス9世は当然ご立腹でプンプンです。
政府から教皇の地位を保証する法律を申し出られても拒否し、信徒たちに国政への不参加を呼びかけ、自らを「バチカンの囚人」と称しました。
つまり「私は何も悪くないのに、イタリア政府のせいでこんなひどい目に遭っている!」というわけです。
同じローマの中に、政府vs教皇という構図が生まれてしまったのでした。
第一次世界大戦では連合国と密約で領土拡大
こうして国内にさまざまな問題を抱えたまま、イタリア王国は帝国主義に突入し、植民地獲得に動いていきます。
アフリカのソマリランドに侵攻したり、エチオピアにナメてかかって負けたり。
清(中国)の義和団の乱を鎮圧し、天津に租界(外国人居留地で治外法権なエリア)を得たりしています。
ウンベルト2世が生まれたのは、イタリアがこういった情勢にある中でのことです。
彼の人生は、イタリア王国が帝国主義からファシズムに支配され、共和制に移るまでの時代ということができます。
1904年生まれですので、第一次世界大戦時はまだ10代の多感な時期。
この頃も「未回収のイタリア」問題が解決していなかったため、イタリア王国は当初中立を表明していました。
そして戦争終盤の1915年、連合国と密かに条約を結び、未回収のイタリアを含めた領地拡大を取り付け、連合国側として参戦しています。
ずるい、というか賢い?
ただし、アルプス山脈に立てこもるオーストリア軍にゴリ押しで挑んだため、多くの戦死者を出しております。
また、オーストリア軍の援軍として現れたドイツ軍にもボッコボコにされます。
エチオピアにケンカを売ったときから何一つ成長していないだと……。
最終的には勝利を収め、連合国に貢献したことになっているのですが、なんかモヤッとしますね。
いずれにせよ、戦後にイタリア半島はオーストリアやハプスブルク家の影響から完全に脱します。
ただし、独立間もないイタリア王国にとって、第一次世界大戦や植民地戦争は負担が大きすぎました。
戦後のインフレは労働者の不満につながり、トリノやミラノなどの工業都市で労働者が工場を占拠したり、ストライキが数多く発生。
農村でも暴動が相次ぎ、資産家たちも徐々に危機感をつのらせていくのでした。
こうした厳しい状況もあってか、ウンベルト2世は厳格に育てられました。
唯一の男子ということもあり、本人も自分の立場を意識していたでしょう。20歳になる年から外交の場にも出ています。
父王の代理として南米を外遊したときには、要人との怪談はもちろん、イタリア系移民の会合にも出席しました。
当時は南米でもイタリアでもファシストが台頭し始めており、結びつきを深めようとしていたのでしょう。
ムッソリーニの台頭 当時は魅力的なリーダーだった!?
さて、イタリアのファシストといえばベニート・ムッソリーニです。
彼は一度選挙に出てボロ負けした後に、地方で再起を図って保守層を味方につけ、ローマに進出したというなかなか根性のあるやり方をしています。
当時の首相ルイージ・ファクタはムッソリーニを追い出そうとしたのですが、国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニに組閣を命じました。つまり、ファクタのほうが追い出されたことになりますね。
国王一家にとって、労働問題を解決できないでいる内閣よりも、地方からのし上がってきたムッソリーニのほうが有能に見えたのでしょう。
ファシストであることや、最期が「裁判なしの処刑&遺体逆さ吊り」という有様のために、ムッソリーニにはアレなイメージがありますが、当時のイタリアにとっては魅力的なリーダーだったのです。
国内からの評判も実は結構高いのは、ナチスのチョビ髭のように人種差別をすることもなく、亡命を勧められても拒絶している辺りが主な理由だと思われます。
国王に認められることで一党独裁を確立したムッソリーニは、エチオピア併合によって国際社会から孤立し、イタリア王国として国際連盟を脱退することを決めます。
そして、似たような状況になっていたドイツと日本に接近して三国同盟を組みました。
そのまま第二次世界大戦に突入したものの、イタリア軍は装備や物資の不足で不利になり、ムッソリーニの威信が揺らいでいきます。
1943年に連合国によるシチリア上陸作戦が始まり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と和平派がムッソリーニを締め出しにかかり、後釜に座ったバドリオ政権は連合国に無条件降伏。
ムッソリーニはドイツ軍に救出され、イタリア北部にイタリア社会共和国を作り、王家を南部に追い出してしばらくの間、再起を図ります。
しかし、1945年4月、パルチザンによって処刑されました。
同年5月にはイタリア国内での戦闘も終結し、イタリアにとっての第二次世界大戦が終わります。
即位5月で6月退位「五月王」と呼ばれる
戦争終盤まで、イタリア王家の人々はムッソリーニを信頼していました。
ウンベルト2世も、そのせいで暗殺されかけたことが複数回あります。
しかし、国王もムッソリーニもウンベルト2世の独断行動を望んでおらず、ベルギー王女マリーア・ジョゼとの新婚旅行の途中で、ドイツのチョビ髭と会談をしたことも問題視されています。
どうもウンベルト2世には、周りの意見を受け入れない傾向があったようです。
妻との間に子供は四人おりますが、育児以外ではあまり仲が良くありませんでした。
その理由が、マリーアがファシズムを嫌っていたことだといわれています。彼女の母国であるベルギーは第二次世界大戦でドイツに侵攻されているので、当たり前といえば当たり前ですね。
ウンベルト2世が両性愛者だったからという説もありますが、これは証明のしようがないのでよくわかりません。
男性のお相手と噂される人物は何人かいますけれども、そもそも相手が男性だろうと女性だろうと、浮気や不倫はマズイですよね。
一方で、全く時勢のわからない愚者というわけでもなく、戦争が終盤に差し掛かると、ウンベルト2世は連合国との交渉などを進んで行い、早期収拾に努めています。
これは連合国にとって好感の持てることだったようです。
しかし、です。
民衆からは「ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、王位を保つためにムッソリーニに組閣を命じた」と受け取られていたので、王家全体の信頼は失われていました。
そこでヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は責任を取る形で退位し、ウンベルト2世が即位することで民衆をなだめようとました。
まぁ、その程度では信頼を取り戻すことはできないんですけどね。
南イタリアでは王を戴く時代が長かったので、それでも王室を支持する声が強かったそうです。
一方、都市国家時代のほうが長かった北イタリアでは真逆の反応。
1946年の国民投票により、王制の廃止が決まり、イタリアは共和国となります。
結果、イタリア王国は、わずか85年で終焉を迎えるのでした。
ついでにいうと、即位が5月で退位・王制廃止が6月だったので、ウンベルト2世は1ヶ月しか王位に就いておりません。
そのため「五月王」というあだ名が付いたとか。
可哀想すぎるやろ。
半分は亡命生活だった79年の生涯
共和国臨時政府は王家の国外追放も決定し、ウンベルト2世一家はポルトガルへ亡命しました。
その後はポルトガルの上流階級と社交を持ち、穏やかに暮らしていたようです。
スペインのアルフォンソ13世といい、大昔の後ウマイヤ朝といい、イベリア半島はどこかから逃げてきた人を引き寄せるんですかね。
場所的にも気候的にもちょうどいいから?
ウンベルト2世は、それから37年後、1983年にスイスのジュネーヴで亡くなっています。
79年の生涯のうち、だいたい半分くらいは亡命生活だったという感じでしょうか。
無理にイタリアに留まって、政治的に利用されたり、ブッコロされたりするよりはマシかもしれませんが、なんだかなあ……。
死後は、イタリア国内で「ウンベルト2世をどこに埋葬すべきか」という論争が起きました。
国内という意見も小さくありませんでしたが、最終的にイタリア王家=サヴォイア家発祥の地である、フランスのサヴォワの修道院に埋葬。
ムッソリーニの遺体が埋葬された後、掘り返されて利用されかけたことがあるので、二の轍を踏むまいとしたのでしょうね。
一応サヴォイア家の血筋はまだ続いています。
が、現在のご当主は何やら……な感じらしいので、ご興味のある向きはご自身でお調べください。
長月 七紀・記
【参考】
ウンベルト2世/wikipedia