シチリア自治州の州旗/wikipediaより引用

イタリア

シチリア島の女王コスタンツァ 複雑過ぎる歴史に翻弄されて

「明日の事を言えば鬼が笑う」とはいえ、先々を見据えて計画をたてることは大切です。
それが国の行く末を決めることであればなおの事ですよね。

しかし、超能力や神通力でもない限り、人間が正確に将来を予測するのは不可能なことです。歴史なんてそんなことばかりですが、本日はヨーロッパの一地域で起きた一例のお話です。

1198年(日本では平安末期・建久九年)11月27日は、イタリア南部の島。シチリアの女王コスタンツァが亡くなった日です。

シチリア島といえば、マフィアやグラニータというシャーベット、そして一度見たら忘れられない州旗などが有名でしょうか。

今回はコスタンツァの時代までのシチリアについてまとめてお話しましょう。

 


ギリシャにイスラム、ローマ帝国… 交通の要所で受難過ぎ

シチリア島は、文字通り地中海のど真ん中にあります。
当然、歴史上ではあっちこっちに揉まれてきた地域で、かなりゴタゴタしてきました。

まず紀元前にギリシア人が渡ってきて、シチリアの各地に都市が成立。
アルキメデスなど、ギリシアの学者として有名な人の中にシチリア島出身の人物もいるくらいなので、そこそこ文化や学問も発達していたものと思われます。

そしてペロポネソス戦争をきっかけに、シチリア島はカルタゴとの戦争における最前線となります。

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一時はカルタゴ領となり、第二次ポエニ戦争後はローマ領に。
ローマ領になってから、カルタゴの血を引く人々は皆殺しになったとか……。

ギリシアやカルタゴの文化は残り、シチリアはイタリア半島とは異なる空気を持ち続けることになりました。

その後、ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びてからはヴァンダル王国というアフリカ北部の国に組み込まれたこともあります。
ちなみに、ヴァンダル王国はナポレオンの出身地・コルシカ島や、後々イタリア統一で大きな鍵となるサルデーニャ島なども支配していました。すげえ。

ヴァンダル王国が東ローマ帝国に滅ぼされたため、シチリアはまたローマ帝国に返り咲きます。
が、その後も200年ほどイスラム国家の傘下になっています。この辺がいかにも、要所にある地域の受難というかなんというか。

 


シチリア王国は異民族の征服により建国された

コスタンツァの国・シチリア王国ができたのは11世紀後半のことです。
日本で言えば、平清盛が我が世の春を謳歌し始める頃から、壇ノ浦で平氏が表舞台から去ったくらいの時期。

建国したのは、北欧の民族であるノルマン人の兄弟でした。

つまり、シチリアの人々が自主的に作った国ではなくて、異民族によって征服されてできた国ということになります。
イタリア版ノルマン・コンクエストとでも言えましょうか。

シチリア王国/photo by Kanbun wikipediaより引用

コスタンツァは初代シチリア王・ルッジェーロ2世の末娘で、当初はときの神聖ローマ帝国皇帝の嫡男・ハインリヒ6世に嫁いでいました。

が、コスタンツァの甥っ子である当時のシチリア王が跡継ぎに恵まれなかったため、彼女にシチリアの王位が回ってくることになりました。

ここでシチリアの住民は「よそに嫁いだ人に支配されるのはちょっと(´・ω・`)」(超訳)と、コスタンツァの即位に反対します。
住民は本来継承権のなかった王家の親戚を担ぎ上げ、武力でもってコスタンツァの即位を阻止したのです。

 


40才の高齢出産でフリードリヒを産む

しかし、たった5年で住民たちが担ぎあげた王様が亡くなってしまったため、コスタンツァとハインリヒ6世は再び兵を挙げ、シチリア王・女王の座につきました。

いつもながら後世からの視点ではありますが、こんな回りくどいことのために戦争で亡くなった人が哀れで仕方ありません。
この経緯で、コスタンツァは後継者の重要性を改めて強く感じたようです。当たり前ではありますが。

シチリア女王コスタンツァと皇帝ハインリヒ6世/wikipediaより引用

夫婦でシチリア王位に就いた後、40歳という現代でも高齢出産になるような年齢で息子・フリードリヒを産んでいます。

しかも、「間違いなく自分の子供である」ということを証明するため、市民立ち会いのもとでの出産だったとか。

コスタンツァの出産から3年後に夫ハインリヒ6世が亡くなると、彼女は女王からフリードリヒの摂政に立場を変え、政治に関わるようになります。
しかし、それは未来に負の遺産をもたらすきっかけにもなりました。

 

かくしてイタリア・ドイツ両国の統一は遅れていった

夫ハインリヒはドイツ人でしたから、シチリアに来る際ドイツ人の貴族を連れて来て、領地を与えていました。
シチリア出身であるコスタンツァは、それがずっと不服だったのです。

おそらく、「いつかあいつらから土地を取り返してやる」と思っていたのでしょう。
が、当然ながら何の失態もなく領地を取り上げられた貴族たちからは、「何あのオバサン腹立つ!」(超訳)としか思えません。

コスタンツァ自身はその後すぐに亡くなっているので、直接害を受けることはありませんでしたが、フリードリヒの代にドイツ人貴族の反乱を招いています。

血の繋がった跡継ぎが大切だと考えたまでは良かったのですがね……。

これに「北も南も神聖ローマ皇帝に挟まれるとかマジ勘弁」(超訳)と考えたローマ教皇との政争も絡み、イタリア・ドイツ両国の統一がますます遅れていくのでした。

長月 七紀・記

【参考】
コスタンツァ(シチリア女王)/wikipedia
シチリア王国/wikipedia
シチリア/wikipedia


 



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