お好きな項目に飛べる目次
軍事独裁政権なれど、評判は悪くナシ
その後コンモドゥス帝が暗殺され、皇帝を名乗る者が複数現れるなど、帝国はしばらく混乱に陥りました。
セウェルスも帝位を求めて名乗りを上げ、兵を動かします。
そして他の帝位請求者を退け、元老院からの支持も得て皇帝に即位しました。
同じく帝位請求をしていたシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスの二人が反対したのですが、セウェルスは剛柔を使い分けて対応。
クロディウスを副帝(=次の皇帝候補)にして懐柔し、ペスケンニウスは武力で押さえつけました。
しかし、ペスケンニウスを倒した後にクロディウスとも戦って勝っています。
つまり最終的には「力こそ正義」というやつです。
こうして皇帝としての立場を固めたセウェルスは、そのままシリア周辺の国を恭順させ、さらに東のパルティア王国と戦争を始めます。
この国とローマ帝国はたびたび戦争をしていましたが、セウェルスは首都クテシフォン(現・イラク)を陥落させ、パルティアからティグリス川沿岸までの領地をぶんどりました。
勝利を記念して、「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」も作っています。
凱旋門というとナポレオンが作ったパリのものが有名ですが、ローマ帝国の時代からあったものなんですね。
軍を動かして皇帝になった人ですので、セウェルスの治世はいわゆる「軍事独裁政権」です。
汚職をした者を粛清したり、軍を優遇して支持を保つことにも気を配っていました。
具体的には、軍の規模を大きくし、兵の給料を1.6倍に引き上げ、属州の市民による補助軍の増強も行っています。
結果、軍の士気とセウェルス帝への支持は非常に高まりました。
そりゃ、雇用拡大と給料アップを両方やってくれる社長がいたら、現代でも大人気ですよね。
セウェルス帝のこの方針は、軍人から皇帝になる人が増える理由にもなりました。
彼はそれだけでなく、民衆からも「強くて気前のいい皇帝」として受け入れられています。
優秀な人ならば、独裁は決してマイナスばかりでもありませんね。
歴史上「独裁」という言葉はマイナスイメージが先行しますが、悪名高い独裁者が単に人格的&能力的に壊れているから――という要素が多いんですよね。
「子供は親を選べない」……その逆もまた然り?
50代半ばあたりから、セウェルス帝は属州アフリカに攻め込んでくる異民族との戦いに力を入れはじめます。
実際に兵を指揮したのは別の将軍たちでしたが、彼らの働きによってアフリカの地中海沿岸部におけるローマの領地は広がりました。
62歳のときには、久々に親征を敢行。
行き先は属州ブリタニア(現在のイギリス南部)で、さらに北方のカレドニア(現在のスコットランド)にも向かい、ブリテン島の北端まで行ったといいます。
これほど強ければ、民衆や軍からの人気が高まるのも当然ですね。
しかし、セウェルス帝も万能ではありません。
自らもかつて働いていた元老院からのウケが悪くなり始めたのです。汚職者の処罰を行ったからには新しい人を入れなければなりませんが、そこに自分で選んだ人を入れたからです。
元老院からすれば「汚職をしたとはいえ、ベテランを処罰してどこの馬の骨ともわからんやつを入れやがった」ことになるわけです。そりゃ面白くないはずですよね。汚職のほうが問題なんですけども。
近衛隊についても同様だったようです。
同時代の歴史家によると、51歳頃からセウェルス帝は友人であり近衛隊長でもあるガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに内政を任せきりだったといいます。
こうしたやり方や外征の多さから、より元老院の心象を損ねたのでしょう。
ガイウスはセウェルス帝に厚く信任され、娘を長男カラカラの妃にするほどでした。
つまり、次の皇帝の舅になったわけですが、増長しすぎたのか、セウェルス帝の親族によってガイウスは暗殺されてしまっています。
その後もセウェルス帝が親政を行うことはなかったようですが、女剣闘士同士による試合の禁止、キリスト教への迫害などを命じていますので、この辺は彼の意志が反映されているものと思われます。
今度こそブリタニア全土を支配!と思ったら……
セウェルスが亡くなったのは、生涯最後の親征となった二回目のブリタニア遠征中のことでした。
当時、カラカラとゲタは既に険悪な仲になっており、どちらかをローマに残しておくことは危険だったため、両方連れて行っています。
そして、今度こそブリタニア全土を支配下にしよう!
と意気込んでいたワケですが、すでにこのとき痛風にかかっており、行軍の間に病状が悪化。
悲願を果たす前にヨークで亡くなってしまいました。
カラカラとゲタは即座に作戦を中止し、父を火葬して骨壷を持ち帰っています。
息子たちは父の遺志はどうでもよかったようです。
まぁ、カラカラのほうは「この遠征中に父を刺し殺そうとした」なんて俗説もあるくらいですしね……。
息子たちがまともな人だったら、もうちょっとセウェルス帝の功績も有名になったかもしれません。
「子供は親を選べない」とはよく言いますが、その逆もまた然り……ですかね。
長月 七紀・記
【参考】
セプティミウス・セウェルス/wikipedia
『ローマ皇帝歴代誌』(→amazon link)