何年も会っていないような知り合いと偶然再会したり、意外な有名人が地元の出身だったり。
この話は国同士でも意外なところで繋がっていることがあります。
本日はその一例といえなくもない、とある外国のお話です。
1865年(日本では幕末・慶応二年)8月16日は、ドミニカ共和国がスペインから独立した日です。
カリブ海にある国ですが、「またよくわからんトコの話か、撤収撤収」と言わず、日本の戦後にも関わる話もありますのでお読みいただければ幸いです(´・ω・`)
あと「ドミニカ共和国」っていちいち長いんですが、「ドミニカ」とだけ言うと別の国になってしまうのでご勘弁ください。
なぜ見分けのつく名前にしなかったし。
まぁそれはさておき、ドミニカ共和国の歴史を振り返ってみましょう。
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イスパニョーラ島をスペインとフランスで奪い合う
現在のドミニカ共和国とハイチのあるイスパニョーラ島。
他の中南米の国同様、15世紀頃からスペインの支配下に置かれていました。
しかもスペイン人が持ち込んだ疫病や、金鉱山での地元民酷使により、元々住んでいた人はほとんど死亡。
それを補うため、アフリカから大量の黒人奴隷が連れてこられています。
この諸々の惨状に対し、スペイン人神父のラス・カサスという人がスペイン政府を告発しておりますが、効果はありませんでした。そんなもんですよね。
17世紀の英西戦争の際、どさくさに紛れたフランスによってイスパニョーラ島の西側を奪われ、これが現在のハイチの元となりました。
このとき分かれた東側の2/4が現在のドミニカ共和国にあたります。
その後、フランス革命とそれに順ずるドタバタの中で、ハイチはフランスから独立しましたが、この後も穏便にいったわけではありません。
ドミニカ共和国はスペインの支配を脱することが出来ず、ハイチとの戦争に負けてハイチに支配されてしまったのです。
ハイチの支配に反対する者は多く、革命軍がまとまって1845年にハイチから独立した……ものの、戦闘が終わらなかったため、スペインに再併合を申し入れるという変わった事態になっています。
頼まれた方もびっくりしたでしょうね。
「アメリカさん、併合して!」「戦争終わったばかりで無理!」
しかしこれに納得したのは軍だけだったため、ドミニカ共和国の住民は激怒、再びスペインから独立を勝ち取りました。
1865年のことです。
スペインからすれば「そっちから併合してくれって言ってたのになんなの? うちら金の出し損なの?」って感じだったでしょう。そもそも金とか吸い上げまくったのは上述の通りスペインのほうですけど。
そして再度独立しても、地続きであるハイチの脅威は止まず、ドミニカ共和国は2回ほど米国に併合を求めました。
この頃アメリカは南北戦争が終わったばかりで他国併合の余裕はなく、この打診を却下。
この後のドミニカ共和国はなかなかの迷走っぷりを見せます。
1882年に就任した黒人の大統領が、賄賂の贈りすぎで経済を崩壊させ、しまいには暗殺されてしまう――そんな世界史上稀に見るダメダメな人でした。
ドミニカ共和国の発展は見事なほどに遅れます。
何より驚きなのは、このダメ大統領が都合3回も同役職に就任しているということでしょう。
ほんと、何考えてんだか、ワケワカメ。
結局、ドミニカ共和国の政府は破産を宣言し、泣きついた先がやっぱりアメリカでした。
ちなみに、この頃のアメリカは西部開拓時代の総仕上げで、インディアンたちを(ピー)しまくっていました。
よくそんな相手に助けを求めたもので……たぶん知らなかったんでしょうけども。
軍部独裁から内戦のゴタゴタへ 失業率も高い
アメリカは関税をもらう代わりにドミニカ共和国の保護を引き受けます。
第二次世界大戦中も、ドイツからの干渉を防ぐためドミニカ共和国だけでなくハイチも占領・保護。
この期間中にドミニカ共和国・ハイチともに何とか経済・政治を立て直すことができ、地元有力者が台頭してくるのですが……そこに私兵や軍閥が絡んでしまったため、両国は軍部独裁へ進んでいってしまいます。
ドミニカ共和国では、1930年に大統領となったラファエル・トルヒーヨという人物によって、領内の白人化を目指し一日に何万人もの人が殺されたこともありました。
1961年にトルヒーヨが暗殺されるまでこの路線は続きましたが、その後大統領になった人物もうまく国内をまとめることが出来ず、1963年にはついに内戦に至ってしまいます。
ここでもやっぱり解決に乗り出したのはアメリカでした。
アメリカ国民の保護とドミニカ共和国の政治是正のためと称してアメリカ海兵隊が介入。
ドミニカ政府軍の鎮圧は出来たものの、首都のサントドミンゴだけで4,000人もの死者が出たといわれています。
1986年に大統領となったホアキン・バラゲールの時代に観光業や在外ドミニカ人により経済が回復したものの、急激な発展により貧富の差が広がってしまっています。
まぁこれはどこの国でもよくある話ですね。
その後は農家への支援や教育水準の高上により、少しずつ経済を発展させてきました。
依然として失業率は14パーセント超と高く、まだまだこれからといったところのようですが。
では、いったい日本との関係はどこにあるのか?
というと、戦後、ドミニカ共和国へ移民した人々がいたのです。
日本人の評価をもう一度上げるため
1945年の敗戦後、日本は、外地からの引き揚げなどによる600万人もの失業者を養わねばなりませんでした。
が、国内だけでは、とても仕事が足りない状況。
また、戦時中に悪化の一途をたどっていた日本人に対する海外からの評価を良くするため、国外で必死に働いて真面目さをアピールしてもらおうという狙いがありました。
そこで、ドミニカ共和国を初めとした中南米の国=つまり、日本と直接戦っていない国が移民先として選ばれたのです。
ドミニカ共和国政府でも「それならウチに来て働いてくださいな」ということで受け入れを決め、1,300人ほどの日本人が移住しました。
が、現地についてから移民の人々にとっては予想外の出来事が続きます。
移民たちに与えられることになっていた「豊かな土地」はほとんどなく、水も灌漑設備もなかったため、農業をするどころではなかったのです。
さらに、ドミニカ共和国政府は移民に土地の所有権を認めず、耕作権だけを与えたため、これも「話が違う!」と大問題になりました。
農業ができないところで農業をやれと言うだけでも横暴なのに、土地が自分のものにならないときたら働く気にもならないですよね。
ついでに、ハイチから違法にドミニカ共和国へ侵入する者を防ぐための国境警備の役も負わせようとしていたようです。
要するに異国の地で屯田兵をやれというわけです。
元兵士の集まりならともかく、女性や子供もいる一般市民に真相を知らせないままそんなことが出来るはずもありません。
最悪なことに、これらの現状は日本政府も知っていて隠していたようです。
事実上の棄民政策!? 土地の譲渡が実現したのは……
右往左往するしかなかった移民たち。
現地人からも白い眼で見られて略奪され、貧しさのあまり自ら死を選んだ人も多々いたといわれています。
ドミニカ共和国政府が認識しているだけで10名だそうですから、実際にはもっと多いでしょう。
このため、ドミニカ共和国への移民は
「最悪の失敗例」
「事実上の棄民政策」
とされています。
日本政府がそれを認めたのは、移民がドミニカ共和国へ渡った5年後のことでした。
8割が日本へ帰国もしくは他の南米の国へ移りましたが、他の2割の人は残って「当初の条件の土地をください」と求め続けました。
しかし、それが実現したのは、何と1998年のこと!
当然、最初に移民した人々はとっくのとうに畑仕事が辛い年代になっています。
しかもこのとき与えられた土地も、最初よりはややマシという程度の農業に向かない場所でした。どこまで人をバカにしたら気が済むんでしょうか。
この問題は小泉首相の時代に賠償金が支給され、一応の和解を見ています。
にしても当事者たちの失われた時間を考えると、やるせない思いしかありません。
長月 七紀・記
【参考】
ドミニカ共和国/Wikipedia
日系ドミニカ人/Wikipedia