1786年(日本では天明六年)8月17日、ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールドが誕生しました。
思わず「誰やねん!」とツッコミたくなるような名前ですね。
ヴィクトリア女王の母である――と言えば、なんとなくイメージも湧いてきましょうか。
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欧米圏ではよくある話ですが、娘と同じ名前なんですよね。
ややこしいので今回は「マリー」で統一させていただきます。
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英国王の候補がいない!
マリーは、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)中部のザクセン=コーブルク=ゴータ公国というところで生まれました。
領地は小さなものです。
が、マリーの時代以降はヨーロッパ王室の故郷として知られるようになります。
いいところのお姫様の宿命にもれず、マリーも18歳で嫁ぐこととなりました。
お相手は、神聖ローマ帝国の中でも大きな領地と実力を持つ、バイエルン公国のライニンゲン侯エミッヒ・カールです。
エミッヒの先妻はマリーの叔母にあたる人でしたから、当然マリーとエミッヒとはかなりの歳の差があります。なんと23歳差。
夫婦関係は悪くはなく、一男一女をもうけました。
しかし、エミッヒとは1814年に死別。
マリー自身はまだ28歳であり、再婚も充分考えられる年齢でした。
一方その頃イギリスでは
「血統的に次次代の王になれる人物がいない」
と大騒ぎで、王族の中で正式な結婚をしていない男性が妃候補を探しているところ。
そのうちの一人、ケント公エドワード・オーガスタスがマリーを選び、結婚に至りました。
今度は19歳上の夫でした。
子供を生むならイギリスの方がいいから、妊娠中に渡英して
後年の言動からすると、マリーのほうにも野心はあったようです。
そういう意味で意気投合したのか、結婚の翌年には後のヴィクトリア女王が誕生。
夫妻はしばらく物価の安いドイツで暮らしていたのですが、「子供をイギリス生まれにしたほうが後々都合がいい」という理由で、マリーの妊娠中にロンドンへ渡ります。
しかし、ヴィクトリア誕生から一年も経たないうちに、今度はエドワードが亡くなってしまうという不幸に直面。
娘を残してドイツへ帰るか。
娘の将来に賭けてイギリスに残るか。
マリーは究極の選択を強いられることになります。
ちなみに後者の場合、エドワードが残した「莫大な借金」という、有難くないオマケ付きでした。
幸い、借金は弟・レオポルド(後のベルギー国王レオポルド1世)から援助を受けることで返済の目処が立ったため、マリーは後者を選びます。
宮廷の中にもマリーとヴィクトリアの政治的な味方がおり、母娘はケンジントン宮殿(2017年現在はウィリアム王子一家が住んでいるところ)の数室を与えられました。
母の厳しい監視のもとで育てられる
ここからしばらく、ヴィクトリアは母の監視といってもいい状況下で育ちました。
元々宮殿すべてを自由に使えたわけではないとはいえ、かなりの間、同じ寝室で寝ていたほどです。
エドワードやその兄弟があまりにもフリーダムな生活をしていたため、悪い影響を受けないように……との意図だったらしいのですが、それにしてもカーチャン用心しすぎ。
マリーはアイルランド人秘書のジョン・コンロイから英語を熱心に学び、やがて政治にも口を出すようになっていきます。
しかしこれがときの国王・ウィリアム4世には面白くありません。
次期女王になるかもしれないヴィクトリア本人はさておき、マリーは外国人かつ未亡人であり、ドイツに帰っていてもおかしくない立場です。
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また、マリーがレオポルドなど自分の兄弟とヴィクトリアをやたらに会わせたがることも、ウィリアム4世には不快でした。
ヴィクトリアを通じて、神聖ローマ帝国がイギリスを乗っ取る計画を立てているのでは……と思ったようです。
よくある話ですから仕方ありませんね。
また、マリーは早いうちから娘の王位継承を確信していたらしく、儀礼的にヴィクトリアを王女として扱うよう、あちこちに強要していました。
これもウィリアム4世の怒りを買った理由の一つです。
ヴィクトリアは不貞でデキた娘では!?
国王の感情が周囲にも移ったのか。
やがて「ヴィクトリアはエドワードの娘ではなく、マリーとアイルランド人秘書・ジョンの不貞でできた娘だ」などという噂まで立ちました。
上記の通り、マリーはジョンと出会うより前、エドワードとドイツに住んでいた頃に妊娠しているので、あり得ない話なのですけれども……そういう時系列を知らない人が噂の出処なのでしょうね。
あるいは、そう言われてしまうほどマリーの振る舞いが目に余り、かつジョンとの親密さが目立ったのだろうということも想像できます。
だいぶ後の話になりますが、ヴィクトリアがそれまでイギリス王室には存在しなかった血友病因子を持っていたことも、「不貞の子では?」と憶測される理由だったようです。
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しかし、今も昔も血友病因子は、遺伝の他に突然変異で現れることもあります。
現在では、エドワードが突然変異で因子を持っていたのがヴィクトリアに遺伝したか、ヴィクトリア自身の突然変異だろうと考えられているようです。
もしもマリーが因子を持っていたら、最初の夫エミッヒとの間の子供たちとその子孫にも因子が現れるはずですしね。
また、血友病は男性のほうが圧倒的に発症しやすいため、「ジョンが血友病因子を持っていて、ヴィクトリアにそれが遺伝した」場合、ジョンが血友病になっていた可能性が非常に高くなります。
しかし、そういった記録はありません。
この点からも、ヴィクトリアがエドワードの娘だろうということがわかります。
まぁ、当時の人は遺伝や突然変異の知識がなかったでしょうから、仕方がないといえばないですけれども。
なんだかんだで仲の良い母娘だったのでは
そんなこんなでウィリアム4世と火花を飛ばしつつ、口さがない噂を立てられつつ、マリーはヴィクトリアを守り育てました。
当然、ウィリアム4世が亡くなってヴィクトリアが女王になったとき、マリーとジョンは政治的に強固な立場を得ようとします。
が、ヴィクトリア女王は即位後、母の部屋と自分の部屋を遠ざけ、ジョンに関しては今後一切会わないと宣言しました。
マリーの狙いは外れました。
その後、娘のヴィクトリアがイギリス史だけでなく、世界史と世界地図に名を残す存在になったのだから、大成功と言えるでしょう。
もっとも、彼女自身の名が取り沙汰されるのは“ウィリアム4世に公的な晩餐会の場でひどく罵倒された”という逸話のときくらいですが。
映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」にもあるシーンですが、アレは本当に言っていた台詞らしいですからね。
ヴィクトリア女王が長女ヴィクトリア(愛称・ヴィッキー)を出産するときにはマリーが立ち会ったそうですので、政治的に遠ざけるために物理的にも突き放しただけで、生涯険悪な仲ではなかったと思われます。
ヴィクトリア女王の夫である王配アルバートが仲立ちをしたとか。
この件に限らず、アルバートは感情で動きがちなヴィクトリア女王にうまく付き合い、良い方向に進ませることができる人でした。
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マリーが亡くなったのは1861年3月。
そしてアルバートが亡くなったのは同じ年の12月のこと。
母と夫を立て続けに亡くしたことはヴィクトリア女王の精神をひどく消耗させ、国民から批判を受けるほどの長期に渡って、喪に服すことになります。
一般的にはアルバートを失った悲しみから……とされていますが、もしかすると母娘の和解を取り持ってくれたアルバートが亡くなったことで、「母ともっと話しておけばよかった」などの後悔が湧き上がってきた、という面もあったのかもしれません。
誰にとっても、親は大きな存在ですものね。
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【参考】
ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド/Wikipedia