1822年(日本では江戸時代・文政五年)9月7日は、ブラジルがポルトガルからの独立を宣言した日です。
日系人が多かったり、在日ブラジル人が多いため、物理的な距離の割にはブラジルのことを身近に感じたことのある方もいらっしゃるのでは?
しかし、その歴史となるとあまり知られていませんよね。
今回はそんな「近くて遠い国」ブラジルの歴史を見てみたいと思います。
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元祖ブラジル人は1万年前に渡ってきた
そもそもブラジルに住んでいた人の祖先は、アジアからベーリング海峡(ロシアとアラスカの間の海峡)を渡った人々だといわれています。
紀元前8,000年頃、現在のブラジルに到達したそうです。
つまり、元をたどればアジア系の民族との共通点もあるわけですね。
ちなみにこれは北アメリカ先住民族や、北米大陸の北極圏地域に住む人々も同じだそうです。
もしかすると、途中で引き返したり交易でアジア方面にいついた人もいたかもしれません。
距離的に離れていたこともあってか。
ブラジルのあたりではインカやアステカなどの古代帝国の影響はあまり受けず、先住民族「インディオ」が独自の社会を築いていました。
しかし1,500年にポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルに発見されたことをきっかけに、ポルトガルの影響を良くも悪くも大きく受けていきます。
まずは染料や貴金属を求めるポルトガル人が、鉱山開発やインディオたちとの交易を始めました。
フランスに侵入されたこともあったのですが、ポルトガルはブラジルに総督制を採用してこれを防いでいます。
総督とは、植民地における国王の代理のようなものです。
ものすごく乱暴に言えば、総督と事を構えるということは、本国にケンカを売るも同然なわけですね。
また、ちょうどその頃フランス本国でユグノー戦争が起きたため、フランス人はブラジル占領に本腰を入れることができなくなり、「ポルトガル vs フランス戦争 in ブラジル」というはた迷惑な事態は防がれました。
ユグノー戦争についてはこちらの記事でどうぞ。
↓
ユグノー戦争と三アンリの戦い~仏の宗教戦争中にアンリvsアンリvsアンリ
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ポルトガル人のインディオ抑圧が始まる
対外戦争の危機は一時去りました。
が、染料の元となる木を伐採しつくしたポルトガル人は、次にサトウキビの栽培と砂糖の精製を試みるようになりました。
このあたりからポルトガル人は、サトウキビ畑や製糖工場などで黒人・インディオに奴隷労働をさせるのがあたりまえになっていきます。
イエズス会修道士によるカトリックの布教や初等教育が行われる裏で、総督府の人間は布教先の村からインディオを連れ去り、奴隷として売っていたのです。
同時に、アフリカからの奴隷船も来ていました。
一方、インディオや黒人との間に子どもを作ったポルトガル人も多く、「ムラート」と呼ばれる混血人も多くなっていきます。
ポルトガルの植民地で他に有名なのはマカオがありますね。
ブラジルはマカオのような商売の拠点ではなく、あくまで商品の産出を目的とした植民地だったため、ブラジルそのものの開発は進められませんでした。
開発の資金になるはずの利益は全てポルトガルへ送られていたからです。
取るものだけ取って還元しないのではめちゃくちゃとしか言いようがありません。まぁ、植民地って大体そうですね。
その後、1580年にポルトガルがハプスブルク朝スペインとの合同王国になったため、間接的にブラジルもハプスブルク家のものになりました。
しかし、当時スペインの支配下にあったオランダの人々が、スペインの国力弱体化を狙ってブラジルに侵入してくるという斜め上の戦法を繰り出してきたため、ブラジル人は抵抗運動を起こします。
一度スペインとオランダの間で休戦が成立。
それが切れるとオランダ西インド会社が設立され、再びオランダが食指を伸ばし始めました。何度も海を渡ってご苦労なことです。
ポルトガルの影響でブラジル人はカトリックが多かったため、プロテスタントであるオランダ人を受け付けられず、やはり反抗を続けました。
このブラジル vs オランダの争いが落ち着いた頃、ヨーロッパではポルトガル本国がスペインから独立しています。
ときのポルトガル王・ジョアン4世はオランダと和平を結んだのですが、オランダ西インド会社はブラジルから撤退しようとはせず、ブラジル人の抵抗も終わりませんでした。
そりゃいきなりよそ者に攻めて来られて、建前はどうあれつつかれ続けたら頭にきますよね。
これに対し、ジョアン4世はブラジルを公国に格上げし、ポルトガル王太子に「ブラジル公」の称号を与えることで名目的な後押しを行いました。
「ウチの王子のシマに手を出すって意味わかってんのかゴルァ」(超訳)ということですね。
さまよえるオランダの攻撃をようやく排除
1654年、オランダは賠償金と引き換えにようやくブラジルから撤退しました。
しかし、ポルトガル領になっていたアフリカ・アンゴラから大量に黒人が連行されてくる状況は続いており、ポルトガルの勢力圏が平和になったとはいえない状況です。
黒人たちもブラジルにつれてこられた後も頑強に抵抗し、内陸部に独自の集落を作ったこともあります。
中には、白人・黒人・インディオ全ての民族が住む街もあったのですが、ポルトガル軍の総攻撃によって滅びてしまいました。
そのまま発展していたら、世界でも有数の国際都市になったでしょうね。
それは文化面で実現したといえなくもありません。
ポルトガル・アフリカ・インディオの三つが交じり合い、ブラジル独自の文化が創られていったのもだいたいこのあたりの時期なのです。
ブラジルのポルトガル語が「本国の言葉と違う」というのは有名な話ですが、これはアフリカの言語に影響されたからだといわれています。
現代ではブラジルのほうが人口が多いため、ポルトガル本国のポルトガル語をブラジル寄りにするという方針になったとかならないとか。
良い面があれば悪い面も当然あります。
有色人種や女性の立場が極めて弱いまま固定してしまったのも同じ時期でした。これは現代でも尾を引いていて、ブラジルの社会問題となっているそうです。
金やダイヤの発見 人道的政策も推し進められ
もうしばらく時代が下り、ポルトガルがイギリスとの同盟で不利な立場になると、その穴埋めをするためにブラジルからの搾取が過酷になっていきました。
ポルトガル人によってブラジル南部で金やダイヤモンドの鉱山が発見され、いわゆるゴールドラッシュが起きてからはなおのことです。
採掘その他の重労働で、再びインディオや黒人が奴隷として酷使されるようになってしまいました。
最終的にはこの富もイギリスに流れていくことになってしまうので、ブラジルはもちろんポルトガルにも全くいいことはなかったのです。
余談ですが、これがイギリスの産業革命の資金になったといわれています。
同盟国を踏み台どころか金づるにするとか……「ジェントルマン #とは」ってググる先生にお尋ねしたいところですね。
1750年からはインディオの奴隷化禁止や人頭税の廃止など人道的な政策も行われるようになりました。
この頃フランス領だったアフリカ・ギアナからコーヒーが入ってきており、ブラジルにコーヒー農園も作られて農業が息を吹き返します。
他には綿花の生産が増え、綿織物も多く作られるようになりました。
現代でもブラジル産のコーヒーは日本にたくさん入ってきていますね。
しかしここでも悪いことが一点。
初等教育を行っていたイエズス会が追放されてしまったため、国民の教育水準が落ちてしまったのです。
こうなるとますます力仕事しか回ってこないわけで、やはりブラジル人の地位は上がらないままということに……。
少しずつブラジル人の地位向上のチャンスが近づいていきます。
アメリカの独立やフランス革命などを知ったブラジルの人々は、「俺らもポルトガルから独立しようぜ!」と考えるようになりました。
当初は密告によって首謀者が処刑されたりして、まとまることもできなかったそうですが。
これは大学などの高等教育機関がブラジルになかったために、反乱を起こそうにも団結することができなかったからというのが大きいとか。
士気を高めるためにはカリスマを持った指導者が不可欠ですからね。
ブラジル独立のカギを握ったナポレオン
カギとなったのは、ポルトガルがナポレオンと対立したことです。
このときポルトガル王室は丸ごとブラジルに逃げるというアクロバティックな引越しをしており、「宗主国の王様が植民地を直接支配する」という世にも珍しい現象が起きたのです。
王室が来たことにより、リオデジャネイロは急速に公共機関や娯楽施設が整えられ、新聞も発行されるようになりました。現金というか何というか……。
その一方でポルトガル人とブラジル人の対立は深まるばかり。
王室はそれを解決しようとはせず、外国からの移民を奨励したため余計話がこじれるという誰得な事態に陥ります。これも結局うまくいかなかったので遠回りどころの話じゃありません。
王様が代替わりしたときにブラジルの地位は少し上がったのですが、ブラジル人たちは次第に共和制を求めるようになっていきました。そりゃそうだ。
このタイミングでも反乱が起きています。やはりすぐ鎮圧されてしまいましたが。
そしてブラジル帝国として独立
1820年にポルトガル王は帰国。
王太子ペドロがブラジルに残されたことで、ブラジルは大きく前進します。
ペドロは元々気さくで質素な人物で、ブラジルに来てからも街中に出て庶民と喋っており、ブラジル人からも人気を得ていました。
王室が本国に帰るとき、8,000人ものブラジル人が
「王太子様はぜひここにいてほしい」
という署名嘆願をしたといいます。
少なくともほぼ同じ人数のブラジル人がペドロと話したことがあるか、間近に見たことがある、もしくは直接接した人から話を伝え聞いたことがあるということですよね。この時代にすげえ話です。
ペドロはブラジル人たちに説得され、独立を決意。
1822年9月7日にブラジル帝国の皇帝・ペドロ1世として即位しました。
まさに「子が独立した」形になったため、周辺諸国との衝突や混乱は起きなかったようです。
もちろんポルトガル本国からはめっちゃ怒られた(超訳)のですが、ペドロの決意は変わりませんでした。
しかし、これがうまくいったのも束の間のことでした。
ブラジル人に後押しされて皇帝になったのに、その後、少しずつポルトガル人を優先し始めたため、反感を買って反乱を起こされてしまうのです。オイオイ。
1831年には宮廷前で暴動が勃発。
ペドロは潔く退位してポルトガルに帰りました。
物分かりのいい対応といえばそうなんですが、後継者に5歳の皇子を指名して置いていくのはどうよ? とツッコミたい。
その皇子はやがてペドロ2世となり、14歳から親政を行うというなかなかの聡明さを見せました。
皇帝は廃位され共和制に
ペドロ2世は、黒人奴隷の廃止を決めたり、なかなかリベラルな君主でした。
しかし、これがカトリック教会や奴隷の主人である地主たちの反感を招き、クーデターを起こされ廃位という残念な事態に。
皮肉にも、クーデターの前に行っていた三国同盟戦争(パラグアイ戦争)の勝利により、軍部が力をつけたことが大きな要因となってしまったのでした。
三国同盟戦争については以下の記事をご覧くださいね。
南米の三国同盟戦争とは?パラグアイvs「アルゼンチン&ブラジル&ウルグアイ」
続きを見る
こうして晴れて共和制になったブラジルは、もちろんこれで全てが解決したわけではありません。
当初はサンパウロ州とミナスジェライス州という二つの有力な州が交互に大統領を出し、平穏な情勢が続いておりました。
前者がコーヒー。
後者が畜産と酪農。
こうした一次産業を主産業としており、この時期の政治体制を「コフェ・コン・レイテ」=「カフェオレ」と呼びます。最初に考えた人のセンスぱねえ。
しかし、交代制とはいえ実質的には寡頭政治だったため、やがて他の州の反感を招いてカフェ・コン・レイテ体制は終わりを告げます。
ただし、いいところもありました。
ブラジルは移民が多く、ヨーロッパ系とアジア系・アフリカ系がごく普通に一緒に暮らしており、人種差別問題にも敏感でした。
1919年に日本が提出した「人種差別撤廃案」の数少ない賛成国でもあります。日英同盟が手切れになるきっかけの一つだったアレです。
日本からの移民と、現代の日本社会を支える日系ブラジル人
日本にとってブラジルは、南米の中でもかなり古い付き合いのある国でした。
カフェ・コン・レイテ体制に入ったばかりの1895年に日本とブラジルは修好通商航海条約を結び、2年後には互いの公使館が設置されています。
すでに120年以上も国交が続いているのですね。
1908年から日本政府の後押しによる日本人の移民が始まり、その子孫たちが現在日系5世・6世となっています。ブラジル全土の日系人は約160万人にのぼり、サンパウロには世界最大級の日本人街もあるとか。
前述の通り、インディオの祖先はアジアや北米大陸経由で南米大陸に行っているため、人種的にも近く溶け込みやすかったのかもしれませんね。
第二次世界大戦では一時国交が途絶え、戦後の国交回復後は、日系人が公的な地位につくことも珍しくなくなります。
日本企業の進出も盛ん。
それにともなって長期滞在や永住している日本人も多く、その子供たちが通う日本人学校もたくさんありますね。
また、ブラジルから日本にやってくる人も多く、18万人(2014年)ほど滞在しているため、お知り合いにブラジル人がいるという方も結構多いのではないでしょうか。
今ではちょっと古くなった感のあるBRICSの一角ブラジル。
お互いのために今後も末永く仲良くしていきたいものですね。
まあ、それはどの国相手であってもそうなんですけども。
長月 七紀・記
【参考】
ブラジル連邦共和国/外務省
ブラジル/wikipedia