現実でも創作の世界でも、お決まりの台詞ってありますよね。
「こんなはずじゃなかった!」
このセリフもその一つでしょうけど、国家の指針に関わることだと本気でシャレにならない事態になってしまいます。
1870年(明治三年)3月1日は、三国同盟戦争が終結した日です。
「三国同盟」というと日本では「日独伊」とつけたくなりますが、今回は南米大陸でのお話。
パラグアイ戦争とも言いまして、文字通り地球の裏側の話ですので、まずはどの辺の位置にある国なのかを確認しましょう。
アルゼンチン・ブラジル・ボリビアに囲まれたパラグアイ
南米大陸の国で覚えやすいのは、特徴的な国土のブラジルとチリですかね。
ブラジルは南米最大の面積ですし、チリは国土が細長くてインパクトがある。残念ながら今回はあまり関係ないのですが。
そして、チリの南から3/4ほど接しているのがアルゼンチンです。キューバ革命のチェ・ゲバラ出身地としても有名ですね。
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それから、アルゼンチンの東端とブラジルの南端両方に接しているのがウルグアイです。
第一回ワールドカップの優勝国ですから、サッカー好きな方はご存知でしょうか。
そして、今日の話で大きなキーとなるのがパラグアイです。
ブラジル・アルゼンチン・ボリビアに囲まれた、完全内陸国なので、なかなか位置を説明するのに困ります(´・ω・`)
そしてこの位置関係が、三国同盟戦争とその後の南米に大きく影響しました。
では、本題へと移りましょう。
マテ茶などの貿易で富国政策に成功していた
当時、南米はヨーロッパの支配を脱しつつありました。
ブラジルはポルトガルから独立して皇帝を戴くようになり、アルゼンチンも自分たちの政府を持って、近代国家への道を歩んでいた頃です。パラグアイは独裁者が恐怖政治を敷きましたが、その一方で義務教育の推進や治安の安定には成功しています。
国土の98%を公有地として、マテ茶・タバコなどの商品作物栽培を推進、保護貿易を行うことで国を富ませました。
この時期のパラグアイには債務がなく、逆にイギリス人の技師を雇って国民に技術を学ばせる余裕があったんですね。
一方、ウルグアイは苦しい状況にありました。
上記の通り、ウルグアイの領土はアルゼンチンとブラジルの間にあります。
ウルグアイ政府の中でも意見が割れるほど。
「アルゼンチンと仲良くしたほうがいいって!」
「ブラジルのほうが頼りになるに決まってんだろ!」
そして親アルゼンチン&保守派のブランコ党と、親ブラジル・自由主義派のコロラド党の間で、ついに内戦に発展します。
ブランコ党はパラグアイに助けを求め、パラグアイのほうでも「ウルグアイが可哀想な感じになってるから、近所のよしみで助けてあげようね!」(超訳)と言い出したのがきっかけとなってブラジルを刺激してしまい、大々的な戦争が始まってしまいました。
助けようとしたら宣戦布告された な、何を言ってるのか……
パラグアイ軍はブラジルの要所を攻め取り、戦局を有利に進めます。
元々南米の中では先に発展していた地域で、国民の団結力も優れていたからです。
が、調子に乗ってアルゼンチンに「ウルグアイを助けに行くんで、ちょっとおたくの領土通らせてもらいますね^^」(※イメージです)と言ってしまったのが運の尽きでした。
こんな要求を文字通りに受け取ってそのまま通したら、自分の領土を取られてしまうかもしれないですよね。
パラグアイのほうでもそれはわかっていたので、アルゼンチンの内情を利用して要求を通そうとします。
当時、アルゼンチンは【首都 vs 地方】のような対立が起きていたので、地方派のトップに対して「もし首都が俺たちを通してくれなかったら、反乱を起こしてくれない? その隙に通るからさ」(※イメージです)ともちかけたのです。
地方派のほうではこれを受け入れましたが、この約束を見事にスッポカシ! つまり、パラグアイがアルゼンチンの領地を通ろうとするのは、完全に「侵攻」になってしまうわけです。
パラグアイが意気揚々とアルゼンチンに侵攻する中、助けに向かう先であるウルグアイでは、ブランコ党が耐え切れなくなっていました。
ブラジル軍の後押しを受けたコロラド党が首都を占領し、逆にパラグアイに宣戦布告するのです。
さらに、コロラド党はアルゼンチンとブラジルに呼びかけて、同盟を結びました。
「三国同盟」の成立です。
「助けようとした相手が宣戦布告してきた」というのはなかなかにシュールな光景ですが、政権交代が起きればこんなものですよね。
ブラジルとパラグアイの一対一
パラグアイはブラジルに押し戻され、国内に撤退。三国同盟軍はそれで矛を収めようとはせず、三方向からパラグアイへ侵攻します。
恐ろしい。
万が一自分がやられたら絶望的な状況です。
しかし、アルゼンチンは自国内での反乱を抑えるため戦線を離れ、ウルグアイも先に手を引きました。
これでブラジルとパラグアイの一対一。
なんだかサッカー中継しているようですが、さすがに国力においてもブラジルの方が圧倒的優勢です。
パラグアイのトップであるソラノ・ロペスは、首都アスンシオンを落とされながらも諦めず、老人や子供と共に首都を脱出し、抵抗を続けました。そしてその後、同盟軍に包囲されて戦死しています。
パラグアイでは国民の半数が死亡
その後もパラグアイ領内では、ブラジル相手のゲリラ戦が続きました。
戦いだけじゃなく、流行病にも苛まされて多くの死者が出て、この戦争期間中(1864-1870年)に国民の半数が亡くなったといわれています。
命を落としたのは、当然ながら成人男性が大半です。
結果、女性が多数派になったパラグアイでは、女性を家長とする制度が根付いたのだとか。
1870年に戦争は終結――。
その後パラグアイでは、政治的にはブラジル、経済的にはアルゼンチンとその背後にいたイギリスに大きく影響されました。
ちなみに、イギリスはこの戦争に関わったすべての国にお金を貸して、莫大な利益をあげています。
ついでにいうと、当時のイギリス国王はヴィクトリア女王です。
女王本人は王配アルバートに先立たれて政治への関心を失いつつありましたが、「大英帝国」の栄華の裏で、一国の国民の半分が命を落としていた……というのは、なんとも言えないところですね。
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長月 七紀・記
【参考】
三国同盟戦争/wikipedia





