三国同盟戦争トゥユティの戦い/wikipediaより引用

中南米

南米の三国同盟戦争とは?パラグアイvs「アルゼンチン&ブラジル&ウルグアイ」

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パラグアイが意気揚々とアルゼンチンに侵攻する中、助けに向かう先であるウルグアイでは、ブランコ党が耐え切れなくなっていました。

ブラジル軍の後押しを受けたコロラド党が首都を占領し、逆にパラグアイに宣戦布告するのです。

さらに、コロラド党はアルゼンチンとブラジルに呼びかけて、同盟を結びました。

「三国同盟」の成立です。

「助けようとした相手が宣戦布告してきた」というのはなかなかにシュールな光景ですが、政権交代が起きればこんなものですよね。

 

ブラジルとパラグアイの一対一

パラグアイはブラジルに押し戻され、国内に撤退。三国同盟軍はそれで矛を収めようとはせず、三方向からパラグアイへ侵攻します。

恐ろしい。
万が一自分がやられたら絶望的な状況です。

しかし、アルゼンチンは自国内での反乱を抑えるため戦線を離れ、ウルグアイも先に手を引きました。

これでブラジルとパラグアイの一対一。

なんだかサッカー中継しているようですが、さすがに国力においてもブラジルの方が圧倒的優勢です。

パラグアイのトップであるソラノ・ロペスは、首都アスンシオンを落とされながらも諦めず、老人や子供と共に首都を脱出し、抵抗を続けました。そしてその後、同盟軍に包囲されて戦死しています。

 

パラグアイでは国民の半数が死亡

その後もパラグアイ領内では、ブラジル相手のゲリラ戦が続きました。

戦いだけじゃなく、流行病にも苛まされて多くの死者が出て、この戦争期間中(1864-1870年)に国民の半数が亡くなったといわれています。

我が子の遺体を前にするパラグアイ兵/wikipediaより引用

命を落としたのは、当然ながら成人男性が大半です。
結果、女性が多数派になったパラグアイでは、女性を家長とする制度が根付いたのだとか。

1870年に戦争は終結――。
その後パラグアイでは、政治的にはブラジル、経済的にはアルゼンチンとその背後にいたイギリスに大きく影響されました。

ちなみに、イギリスはこの戦争に関わったすべての国にお金を貸して、莫大な利益をあげています。

ついでにいうと、当時のイギリス国王はヴィクトリア女王です。
女王本人は王配アルバートに先立たれて政治への関心を失いつつありましたが、「大英帝国」の栄華の裏で、一国の国民の半分が命を落としていた……というのは、なんとも言えないところですね。

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【参考】
三国同盟戦争/wikipedia

 



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