明治三十六年(1903年)2月9日は、装甲巡洋艦・日進(にっしん)が進水した日です。
軍属の船というと何となく国内で作らないといけない気がしますが、実はそうとも限りません。
日進と同型艦の春日は、イタリアの会社が作ったアルゼンチン軍の船でした。
日露戦争の直前、日本とロシアが競って戦力を集めていた頃に購入。
日英同盟に基づいて先手を打ったイギリスのおかげで、日本が二隻(もう一隻は春日)とも購入することができました。根回しってホント大事ですね。
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防御力が上がる代わりに速度は落ちる
装甲巡洋艦とは、船の側面(舷)に装甲を追加することによって、防御能力を高めようとした船のことです。
銃火器の発達によって、それまでの船では一撃必殺(※イメージです)の危険性が高まったことから考えだされました。
実在するかどうかはさておき、織田信長の鉄甲船と似たような発想ですね。
当然ながら普通の船より重くなるので、防御力が上がる代わりに速度は落ちます。
各国それぞれ改良を重ねたものの、第一次世界大戦中に「やっぱもっと頑丈でないとダメだわ。砲撃もちょっと物足りないし」ということが判明。
その後、新たに定義された重巡洋艦・軽巡洋艦、そしてやはり戦艦が重んじられていき、装甲巡洋艦が作られることはなくなりました。
名前からするとカッコよくて強そうなんですけど、器用貧乏というやつでしょうか。残念。
遅かれ早かれ軍用航空機が登場するので、いずれにせよ過渡期のものではありました。
日本を経由して世界で活躍した船たち
そんなわけで、日進と春日も、早いうちに戦力としてはお役御免となっています。
その後も警備や調査などには使われていましたが、「軍事用に作られたのに、戦時中に戦えない船」というのもなかなか切ないものです。
日進は第二次世界大戦が始まる前に、砲弾実験に使われて一度沈んだ後、引き上げられて解体。
春日は終戦直前の昭和二十年(1945年)7月に横須賀空襲で大破の後、三年経ってからやはり引き上げ・解体されています。
実は、海外からやって来た船は日進・春日だけではありません。
逆に、日本から他の国へ行った船や、複数回国籍が変わった船もあります。
ごく一部ですが、面白い経緯のものをまとめてみました。提督の皆さんにはお馴染みな話もありますが、こまけえこたあいいんだよ。
◆マカオ→舞子(ポルトガル→日本→中華民国→中華人民共和国)
その名の通り、ポルトガルがマカオの警備のために作った船です。
起工はイギリスの会社で、一度香港に行ってから組み立てられています。人間だったらトリリンガルになってそうですね。
第二次世界大戦中、ポルトガルは中立だったので、日本海軍が交渉・購入しています。
読み方が似てるから「まいこ」という名前をつけたそうなのですが……一文字しか合ってねーぞ!
香港や広東といった中国南部の哨戒にあたっていたため、あまり大きな戦闘は経験しませんでした。
終戦後は中華民国のものになり、名前も「武凰」(ウーファン)という勇ましい感じになっています。その後中華人民共和国に投降し、1960年に除籍されました。
◆レパント→興津(イタリア→日本)
こちらは、イタリアの降伏後に自沈させられていた船を、日本軍が引き揚げて再利用したものです。
終戦時には上海の南・舟山列島にあり、舞子と同じく中華民国に接収されました。
中華民国からは「咸寧」(シェンニン)と名付けられています。
1950年にアメリカ式の装備に改装したものの、数年後除籍されました。
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