ミズーリ艦上で日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣/Wikipediaより引用

ロシア WWⅡ

ソ連を信用しすぎて終戦が遅れた!? 太平洋戦争、間際のドタバタ

戦争における和平交渉ほど難しいものはありません。
そもそも当事者同士の話し合いでカタがつくなら、最初から武力衝突になどならないでしょう。

そこで、より穏便な解決を目指そうとするのであれば、誰かに仲介してもらうのが一番。
あの織田信長だって、正親町天皇の勅命による和睦を頼んだりしております。

ただ、仲介してもらう相手とタイミングを誤ると、想像を絶する惨事の種になるわけで……。

8月15日は、皆さんご存知の通り、終戦記念日です。

昭和二十年(1945年)のこの日、昭和天皇が自らラジオを通して国民に終戦を告げられ、戦争が終わった――ことになっていますが、実はこの後も全てが終わってはいませんでした。

厳密にいえば「アメリカとの戦闘行為が終了した日」というのが正しいでしょう。
イギリスでも「対日戦勝記念日」と呼ばれているとか。

 


自軍が有利なうちに和平交渉を進められれば……

歴史の教科書では、終戦時の描写があまりに簡略化されているため、
【原爆が落とされたから慌てて降伏した】
というイメージが強いかもしれません。

しかし、和平工作はもっと前から行われていました。

そもそも、開戦当時の海軍大将・山本五十六は、
「半年や一年なら大暴れしてご覧に入れます。しかし、二年・三年となれば保障できません。勝つための準備はしますが、できるだけ戦争にならぬようお計らいください」(意訳)
と言っていました。

この「大暴れ」の一端が真珠湾攻撃ですね。

日本海軍の真珠湾攻撃で炎上する戦艦アリゾナ/wikipediaより引用

戦争に勝つための条件は大きく二つあります。

一つは、コテンパンにやっつけること。
もう一つは、自軍が有利なうちに和平を決めてしまうことです。

山本はおそらく、「戦わないに越したことはないが、どうしてもというなら一年以内に和平を結ぶ手筈も整えてください」とも言いたかったのかもしれませんね。
発言のソースがときの総理大臣・近衛文麿の日記なので、本当はその辺りのことも言っていたかもしれません。

しかし残念ながらアメリカとの戦争が始まると、山本のように軍を指揮する立場の人間は、和平に対する意見を言えない状況になってしまいました。

代わって活躍すべきなのが外務省及び各国に駐在していた大使たちです。
が、本人たちの能力如何の前に、そもそも政府が交渉相手を見誤るというデカイにも程があるミスをやらかします。

ものすごく単純に言うと、ソビエト連邦(ソ連)を信用しすぎました。

 


ソ連が中立でいてくれるなら和平仲介も……

真珠湾攻撃の9ヶ月前。
日本とソ連は昭和十六年(1941年)4月13日に中立条約を結びました。

互いの不可侵と、戦争時の中立を約束として、松岡洋右外相(&建川美次駐ソ大使)と、ソ連のモロトフ外相との間で調印されたのです。調印場所はモスクワでした。

有効期間は五年間。
それだけでなく、この条約には、
「満了一年前までにどちらかから破棄の宣告がない限りは自動延長される」
という条文が含まれています。

つまり、当初の予定では昭和二十一年(1946年)4月までは有効でした。

しかし、ソ連が昭和十九年(1945年)2月のヤルタ会談にて、アメリカから「対日参戦するのは世界の平和を守るための義務だ」(※イメージです)と言われたこともあり、同年4月上旬に、突如、中立条約を破棄する旨を通達してきました。

ヤルタ会談に臨むソビエト連邦のスターリン(手前右)/Wikipediaより引用

ここで大問題になったのが、中立条約の中に「満了一年前までに破棄した場合、いつまでこの条約が有効なのか」という文章がなかったことです。

ソ連は「破棄って言ったんだから、もう中立関係じゃない」と考えており、日本は「破棄って言われたけど、最初に五年間って約束したんだから、約束の期間(来年4月)までは大丈夫」と受け取りました。

たった一つのこの取り違えが、多くの悲劇を招くことになります。

日本政府は前述の通り「来年(昭和21年4月)までソ連は中立でいてくれるはずだから、和平の仲介もしてくれるだろう」と考え、駐ソ連大使に交渉を進めるよう命じました。

現地にいてソ連の考えに薄々気付いていた佐藤尚武なおたけ大使も、
「ソ連は、アメリカ&イギリスへ言い訳をするために条約破棄を申し出てきたものと見える。だが、これが本気だった場合……」(意訳)
という、非常にあいまいな見方をしています。

後者であることがわかった時点で、佐藤は「和平交渉は難しい、一日も早い終戦を」という電報も打っていますが、日本政府の期待はまだ続いていたようです。

 


8月9日 突如、ソ連軍が樺太・満州・朝鮮へ侵攻

実はこの裏で、他の国との和平工作も試みられていました。

中国に対しても多方面から協議が重ねられていましたし、中立国であるスウェーデンに仲介してもらうべく動いていた人もいます。
また、スイスにいたアメリカのお偉いさんと交渉を進めようとしていた人たちもいました。

しかし、日本政府があくまでソ連を頼ろうとしたことで、これらの交渉は中断もしくは延期が重ねられ、不首尾に終わっています。

日本政府の目が覚めたのは、8月9日にソ連軍が
・樺太
・満州
・朝鮮半島
へと侵攻してからのことでした。

もしソ連との交渉に早く見切りをつけ、他の道を取っていたら?

そんなことを考えても意味のないこととはわかっておりますが、どうしたってアタマをよぎります。

なにせ一般市民の犠牲が格段に減っていた可能性は高いでしょう。
戦争は、とにかくやるせないものです。

なお、終戦後に虐殺行為を行うソ連に対して特攻された方たちの話は以下の記事にございます。

妻と飛んだ特攻兵
妻を後部座席に乗せてソ連軍へ特攻『妻と飛んだ特攻兵』は涙なくして読めず

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
日本の降伏/Wikipedia
対日戦勝記念日/Wikipedia


 



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