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国際条約に基づき捕虜を丁重に扱う騎士道精神
ゆっくりできたのもほんの束の間。
1941年から、今度は北アフリカ戦線で英米軍と戦うことになります。
日中は40度を超える一方、夜は氷点下にまで冷え込む上に、天候も不安定な砂漠地帯。病気や脱水症状も起こりやすいという過酷な環境に苦しめられました。その上、彼我の物量差を戦術でカバーしなければならないというハードモードです。
しかし、戦場が砂漠であったために民間人の犠牲者は少なく、SSが来なかったためにユダヤ人虐殺もありませんでした。上からそういった命令が来ても、ロンメルはその部分だけは部下に伝えなかったそうです。
また、ロンメルは捕虜を国際条約に基づいて丁重に扱いました。これらの点から、ロンメルは騎士道精神に忠実な指揮官として認識されています。
その「騎士道の国」の一つであるイギリス軍はといえば、ドイツ軍捕虜をかなり手荒く扱っていたといいます。イギリス軍の捕虜対応マニュアルを見てロンメルは激怒したそうですから、よほどだったのでしょう。
その後、イタリアがろくな準備もせずエジプトを目指して進軍したため壊滅し、ドイツに助けを求めてくるというgdgdな事態が起きます。
これにはさすがのちょび髭も苦笑いどころではありませんでしたが、「あの辺ほっとくとウチの作戦にも支障が出る」として、イタリア軍支援を決めました。
その中にロンメルも選ばれ、一度ベルリンに戻ってから再び北アフリカへ向かい、イタリア軍の司令官と相談して戦況打破に動きます。
士気が落ちている今こそ絶好の機会だろ
ロンメルは物資や兵器の輸送を急ぎました。
が、戦闘の状況から「イギリス軍は積極的に攻めるつもりではない」と考えました。
この頃チャーチルの意向で北アフリカのイギリス軍はギリシャに戦力を割かれており、前線維持が目的だったと思われます。
また、同時期にイギリス軍の司令官が砂漠に不慣れな人物に交代していたことも影響したのでしょう。
ロンメルはこうして厳しい状況の中、北アフリカ戦線を維持することに成功しました。
しかし、ドイツ本国では独ソ戦に注力するため、そしてロンメルを嫌う人々の讒言により、その働きが認められることはありませんでした。そればかりか、「アフリカは適当にやっておけ」と言われてしまいます。
……あのナポレオンですら、イギリス攻略を後回し&ロシアを攻めて大失敗してるんですが、ヒトラーは、ナポレオンより自分のほうが上だとでも思ってたんですかね。
しかし、現場を知っているロンメルにとっては、イギリス軍の士気が落ちている今こそ絶好の機会でした。
命令を無視して進軍し、イギリス軍が二ヶ月かかって占領したキレナイカ地域を10日で奪い返すという快挙を成し遂げています。
その後も北アフリカ戦線で活躍したものの、妻への手紙の中で「イタリア軍が上も下も全くアテにならなくて困る(´・ω・`)」と愚痴も書いていました。さすがヘタリア(「ヘタ」レなイタ「リア」軍の略)。
中央からすれば、命令を無視する・多くの損害を出すロンメルは歓迎できない存在でした。それでも戦況判断の点において、ロンメルは非常に優れていたため、プラマイゼロと評価されていたようです。
例えば、敵の旅団間の連携がうまくいっていないことを見抜き、そのつなぎ目を断つようにしてイギリス軍の背後に回りこむことに成功しています。当然のことながら背後を突かれたイギリス軍は大混乱に陥り、お偉いさんが視察に来たときには敗走中だったとか。笑えない話ですね。
しかも、このとき物量や制空権を握っていたのはイギリス軍のほうです。指揮系統が崩れた軍は烏合の衆になる、という実にわかりやすい例です。
この戦果にヒトラーとムッソリーニは大喜びし、イタリア軍の一部もロンメルの指揮で動かせるようになりました。
自軍だけでなくイタリア軍からもロンメルの人気は高まり、一気に士気と練度が上がったといいます。
やはり「強い男」は男のやる気を引き出すものなんでしょうか。現代でも、仕事も性格的にもデキる上司は良い目標になりますものね。
リビアのキレナイカをめぐって激しくなる英軍とのバトル
一方、チャーチルは自軍の不甲斐なさに(#^ω^)ピキピキし、司令官を交代させていました。そりゃあ、なぁ。
ちなみに、この数ヶ月後にチャーチルの大のお気に入りだった戦艦プリンス・オブ・ウェールズも日本軍の攻撃で沈没しています。
とはいえ、独伊軍にとって悩みのタネである北アフリカの補給線は未だ改善できていませんでした。そのためイギリス軍から物資を奪おうとしたものの、空襲のためなかなかうまくいかずに終わっています。
この間、イギリス軍はロンメルの誘拐・暗殺計画まで立てていたとか。
まぁ、砂漠で敵軍に忍び込むのは難しいでしょうけどね。やるならベルリンに戻ったときが一番だと思うのですが、さすがに当時の情報網では難しかったようです。
また、イギリス軍は沿岸部からの侵攻で失敗したため、内陸部からキレナイカ(リビア東部)奪還を計画しました。
この日ロンメルはたまたまローマに出かけて戻ってきたばかりで、当初まともに指揮が取れなかったといいます。
そのため一時は独伊軍が劣勢になりましたが、イギリス軍自身の割と洒落にならないミスで、(独伊軍が)状況を改善しました。棚ぼたにも程がある。
しかしその後は一進一退。
物資などで不利な独伊軍が先に壊滅しかねない状況にまで陥ります。ロンメルの参謀が独断で撤収を命令するほどでした。
これにはロンメルも、一度は激怒したものの「やつの判断が正しい」と認識を改めて後退を選んでいます。
自分も上の命令を無視することが少なくなかっただけに、相手が正しければ部下の命令違反を咎めようとはしなかったようですね。
マルタ島への空襲で北アフリカへの輸送状況は改善する
ロンメルは兵を激励して心情的にも立て直し、部隊の再編成を行いました。
1942年のはじめには新しく戦車や装甲車が届き、さらにやる気を高めています。
独伊軍の立て直しはイギリス軍の予想よりも早く、キレナイカ地方のほとんどを奪還することに成功しました。
独伊軍の補給が厳しかったのは、イタリアからの輸送船のおよそ半分がイギリス領マルタ島の英軍によって沈められていたからです。
しかし、独伊空軍によってマルタ島への空襲が行われたため、北アフリカへの補給状況が改善し、戦況にも余裕ができました。
これを踏まえて、ロンメルは今度こそキレナイカ地方を完全に奪うべく作戦を立てます。
戦略的には後手に回ったイギリス軍でしたが、アメリカの工業力により戦車や新型対戦車砲を導入でき、またしてもドイツ軍が追い詰められることになりました。
一時は水が枯渇するまでになったといいますから、戦闘以前の問題です。
そのため、補給線維持を重視して、しばらくビル・ハケイムという町を巡って戦うことになりました。
ここは自由フランス軍が守備しており、その構成員はヒトラー等の迫害から逃れてきたユダヤ人が多かったそうです。
そのため、ドイツ本国からは「殲滅しろ。捕虜にしてしまった場合は秘密裏に殺せ」という命令が来ていたとか。
しかしロンメルは「ユダヤ人問題の最終的解決」には反対だったので、その部分は部下に伝えなかったそうです。
冷静に考えれば、物資に余裕がない状況で余計なことに労力や武器を使っている場合でもないですよね。
砂漠の狐と賞され、史上最年少の陸軍元帥にも任じられる
ビル・ハケイムはやがて独伊軍の手に落ち、この地域の要衝である港町・トブルクも同様に独伊軍へ降伏します。
これは英軍にとって大きな痛手となり、チャーチルも問責決議案を出されるほどでした。
ヒトラーはこの戦果に感動し、ロンメルを史上最年少の陸軍元帥に任じています。
敵である連合国からも「砂漠の狐」と賞されたが、何度も煮え湯を飲まされているチャーチルは「天才的な能力を持った男だ。だからこそ奴を倒すことが最重要」と述べたとか。
しかし、この後エジプトへ侵攻すると、イギリス軍の中のインド旅団に苦しめられました。
各地での劣勢により、インド本国でのイギリスの影響力は衰えはじめていたのですが、少なくともエジプト戦線では違ったようです。
ニュージーランド師団も激しく抵抗しています。腐っても大英帝国といったところですかね。
また、再び独伊軍への補給が英軍に空と海から妨害されるようになったり、暗号解読でも後れを取ったりと、ロンメルの力ではどうにもならないところで差がつき始めました。
さらに、この頃からロンメルは体調を崩しがちになりました。
暗号解読によってイギリス軍にバレ、少なからず戦況に影響したと思われます。
それを予期してか、イギリス軍が補給を完了する前に決着をつけなければならないと考えたロンメルは、再び侵攻を開始しました。
しかし、地雷が予想より多かったことや砲火の激しさ、空襲によってなかなか思うように進まず、優秀な部下が次々と離脱してしまい、さすがのロンメルも動揺します。
参謀長の「今この作戦をやめたら、多くの兵の死が無駄になります」という諫言で無闇な作戦中止はとりやめたものの、その後も戦況打開はできませんでした。
病気のためか、ロンメルの能力や精神状態に限界が近づきつつあったのです。
追い込まれ怒鳴り散らすちょび髭にショックを受け
英軍も多くの戦車を失うなど、損害はありました。
しかし「砂漠の狐を追い返した」という点はその士気を大いに回復させます。
一方ロンメルは、自分の状態を自覚したのか、病気療養のため一時ドイツに戻ることを決めます。
もちろん後のことも考えており、部下が戦線を保てるよう、自軍の正面に44万個もの地雷を埋めさせました。
しかしロンメルの体調が回復しきる前にイギリス軍の再攻勢が始まった上、代わりに指揮を任せていた部下が亡くなり、ロンメルは一ヶ月もせずに北アフリカへ戻らなければならなくなってしまいます。
病身を押して戻ったものの、北アフリカの戦線維持は既に厳しい状況。
現場の状況を理解していない、ヒトラーの命令は「絶対死守」で、独伊軍の被害は広がるばかりです。
合わせて3万人近くの死者・行方不明者を出す惨敗となりました。
この頃になると、どこの戦線でもドイツ軍の不利になっており、ヒトラーは部下にもヒステリックな罵声を頻繁に浴びせるのが日常茶飯事でした。
ロンメルは今まで褒められたことしかなかったので、かなりのショックを受けたといいます。
優秀な人が挫折するとぽっきり行くもんですよね。
もう、どうにもならない……そして使者が持ってきた毒を……
うまくいかない戦況。
提案をまるで飲まない上司。
使えない友軍。
勢いを増す敵軍……。
にっちもさっちもいかない状況で、ロンメルは心身ともに疲れ果ててしまいました。無能な上司が有能な部下を潰す典型例ですね。
運良く(?)ロンメルは完全にぼろぼろになる前にベルリンに呼び戻され、しばらく療養の後に西方軍に転属となりました。
北アフリカ戦線での経験上、「米英軍は制空権を掌握してから攻撃してくるだろう」と考え、上陸時に水際で迎撃する作戦を立案していたのです。
しかし、西方軍の総司令官ルントシュテットは、航空戦力の脅威を認識しておらず、「わざと上陸させてから機甲師団で叩くほうがいい」と主張しました。
上の意見がこれでは部隊がまとまるわけもなく、緊張した状態で時が流れていきます。
そして1944年6月6日。
フランスでノルマンディー上陸作戦が展開。
状況は一気に変わります。
3分でわかるノルマンディー上陸作戦!海だけでなく空からも英米軍の空挺師団が
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この時ロンメルは妻の誕生日のためにベルリンで休暇を取っており、戦線には不在でした。
しかもルントシュテットは相変わらず制空権の重要さを理解していなかったので、ドイツ軍は有効な反撃ができなかったとされます。
もしもロンメルの作戦が容れられていたら、ノルマンディー上陸作戦は今日伝わっているほどの成功にはならなかったかもしれません。
まあ、このときの連合軍側もアレなエピソードはあるんですけども。
ロンメル自身は上陸作戦の約一ヶ月後に機銃掃射によって負傷し、入院しています。
その直後、何度めかのヒトラー暗殺未遂事件が発生し、実行犯の一人が自決しようとしたときにロンメルの名をつぶやいたため、同時に関与を疑われてしまう始末です。
ロンメルはまだ自宅療養中でしたが、「反逆罪で裁かれるか、自決するか」を選ばされることになります。
裁判になってもどうせ死刑になる上、その場合、家族も危なくなることが目に見えていました。
もう、どうにもならない……。
覚悟を決めたロンメルは、使者が持ってきた毒薬で自決を選び、この日に亡くなります。
ロンメルの死は戦傷によるものと発表され、「英雄」として盛大な葬儀が営まれました。
実際に負傷のためドイツへ戻ってきたわけですから、極めて自然な理由に見えたでしょう。
しかし、英雄の国葬としたわりに、ヒトラーは参列していません。後ろめたさがバリバリです。
このタイミングで自ら優秀な人材を殺してしまったことや、指揮官同士のいざこざを解決できなかったあたりに、やはりヒトラーのアレっぷりが見えますね。
まぁ、多正面作戦をやった時点で十二分なのですが。マイナスの方向に。
長月 七紀・記
【参考】
エルヴィン・ロンメル/wikipediaより引用