フランシス・ドレーク

フランシス・ドレーク/wikipediaより引用

イギリス

英国海軍の英雄フランシス・ドレーク~スペインから悪魔と恐れられた戦い方とは

今なおイングランド海軍の英雄であるフランシス・ドレーク

世界史がお好きな方や学生さんだったら「ああ、アルマダの海戦の人ね」と連想されるかもしれません。

教科書的にはその一点しか取り上げられませんが、実はアルマダ(スペイン海軍)とフランシスには並々ならぬ因縁がありました。

それは一体どんなものだったのか?

フランシス・ドレークの生涯と共に振り返ってみましょう。

フランシス・ドレーク/wikipediaより引用

 


海賊の生い立ち

フランシスは1540~1545年頃に生まれたとされています。

祖父の代は小作農の家で、父・エドマンドがプリマスへ出て船員となると、仕事で立ち寄った外国の港でプロテスタントの信徒になり……といった遍歴で、フランシスもプロテスタントになったようです。

しかし、1549年に起こったカトリックの反乱を見てエドマンドは身の危険を感じ、親戚のウィリアム・ホーキンズを頼りにプリマスへ逃げました。

エドマンドはここでイングランド水兵相手に神の教えを説く聖職者になり、なんとか身の安全と生計を確保したとされます。

なんせドレーク一家は、両親+フランシスを含めた兄弟12人=合計14人という超大所帯です。

父親が働くのは当然として、幼いフランシスも10歳ごろから近所の人の船で下働きをし、家計を助けるようになりました。

当時は合法というか児童労働という概念がないので、両親は頼みにしていたでしょう。

周囲の人々も「家の役に立って感心な子」と思っていたのではないでしょうか。

10代前半で船に乗るというのも、当時は珍しいことではなかったようです。

フランシスが働き始めたかどうか……といった頃合いの1554年7月、イギリス海峡にスペインの大艦隊が到来するという出来事がありました。

物騒な目的で来たものではなく、ときのイングランド女王メアリー1世と結婚したスペイン王太子・フェリペを送り届けるための船団です。

この夫婦はカトリックであり、特にメアリー1世はプロテスタントを積極的に迫害・処刑したことで知られています。

それによって、またしてもエドマンドは職を失ったそうです。このトーチャンも相当に運の波が激しい人ですね。

苦しい家計を支えていたフランシスが「カトリックのせいでうちはこんな目に遭うんだ!」と憎らしく思ったとしても、無理のないことでしょう。

 


奴隷貿易の道へ

時が流れ、1558年にメアリーが崩御。

異母妹のエリザベス1世が即位すると、エドマンドは再び牧師の職を得てまともに生活できるようになります。

その間はフランシスが大黒柱となり、朝に夕に働いていたそうです。

彼の雇い主だった船長はその勤勉さを称え、亡くなる前に自分の船をフランシスに与えてくれました。やったぜ。

しかしフランシスは物に愛着がないタイプだったようで『この船を売ってお金を作り、もっと儲かる仕事の原資にしよう』と思い立ちます。

この頃、いとこのジョン・ホーキンズが西インド諸島で奴隷を仕入れ、スペインの植民地に売って莫大な利益を上げている……と聞いたから。

現代人からすると非人道的にも程がありますが、当時は合法の商いでした。

「スペインやポルトガルが、植民地での労働力にする奴隷を高く買っている」

ジョンはそんな話を聞きつけて、アフリカで顔なじみになっていた黒人の首長に話を持ちかけ、安く奴隷を仕入れていたのです。

なんでも、その部族では犯罪者や戦争の捕虜を奴隷にする習慣があったのだとか。

顔をしかめる方も多いかもしれませんが、戦国時代の日本も同じようなもので、合戦が起きるたびに奴隷売買が行われていました。

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ちなみに売るときは

「嵐に遭って漂流し、食料が不足しているので、奴隷を処分したい。安い値段でいいので買ってくれませんか」

と西インド諸島サント・ドミンゴのスペイン人総督に願い出ていたそうです。ったく、ゲスすぎますね。

しかしスペインでは「外国の船と勝手に商売をしてはならない」という決まりがあり、この件がバレた時にスペインからイギリスにクレームが入りました。

エリザベス1世も当然これを耳にします。

「あら、スペインの植民地はそんなことになってるのね。だったら国がこれを援助して、もっとウチの国民に稼いでもらいましょう」

かくしてイングランドは、議会の承認つきでジョンのスポンサーとなります。

これまたえげつない話ですが、当時のイングランドは女王の父や姉時代のすったもんだのせいでお金がなく、金儲けの手段を選んでいられなかったのです。

 


女王のお墨付き

ということで、ジョン二度目の航海には、イングランドの軍艦ジーザス・オブ・リューベックが加わりました。

女王様、堂々と支援し過ぎ。

ジョンは、前回同様にアフリカで奴隷を仕入れ、南米のボルブラータやリオ・デ・ラ・アチャで売り、ついでにカリブ海の測量と海図を作りながら北上して帰国――という、素晴らしく手際の良い航海を済ませます。

結果、ジョンは莫大な利益を上げます。

しかし、コケにされたスペインが黙っていませんでした。

イングランドも表面を取り繕うため、枢密院(女王の側近たち)がジョンをロンドンへ呼び出し、取引とも言えるような措置を取ります。

「もうあんなことをしないように! しかし保証金を払えば、身の自由は保証してやろう」

かくして500ポンドの支払いを命じられたジョンは、その後、一時は大人しく過ごします。

しかし彼の船団はジョン・ロベルという人物によって出港し、またも商売を始めました。この三回目の航海が1566年で、フランシスが参加したのもこのときのことです。

ロベルは短気な人物だったのか、商売が下手だったのか、今度の航海では様々な失敗を重ねてしまいます。

例えば、黒人を集める際にポルトガル人と争って数人殺してしまったり、売り先のリオ・デ・ラ・アチャではスペイン人に騙されて奴隷を奪われたり。

最終的にロベルやフランシスも殺される寸前で逃げる羽目に陥ってます。

ポルトガルもスペインもカトリック国だったため、プロテスタントのフランシスは信仰上の理由もあって、両国に深く恨みを抱いたようです。

幼い頃の苦労も影響したでしょうね。

ケチはついたものの、三回目の航海も利益を上げていたため、再度スペインからイングランドにクレームが入りました。

エリザベス1世は国際的な建前上、なんらかの処分をしなければなりません。

しかし最終的には四回目の航海にもGOサインを出します。

いやぁ、強気というか、舐め腐っているというか、さすが英国というか。

スペイン大使が本国への手紙の中で「この女王の中には10万の悪魔がいる」と評したことがありますが、それもむべなるかなという感じですね。

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