いつの時代も、親子関係で悩む人の話は枚挙に暇がありません。
最終的にうまくいけば御の字ですが、ケンカ別れしたままだったり、一方が不慮の死を遂げて解決できなかったり。
本日はその手の話の中から、真っ向からぶつかり合って父を超えた芸術家の話です。
1899年(明治三十二年)6月3日、作曲家のヨハン・シュトラウス2世が亡くなりました。
500曲を超える多作家であり、
「ウィーンのワルツ王」
「オーストリアのもう一人の皇帝」
などの異名でも有名ですね。
ファーストネーム・ミドルネーム・ラストネームの全てがお父さんと一緒でとても区別がつきづらい、お名前でもあります。
ちなみに「リヒャルト・シュトラウス」という作曲家もいますが、赤の他人で血縁関係はありません。
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「美しく青きドナウ」が2世で「ラデツキー行進曲」が1世
日本でも馴染み深いのは、やはり「美しく青きドナウ」でしょうね。
1:48あたりや6:43あたりのフレーズは誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ついでに、こっちがお父さんのヨハン・シュトラウス”1世”の代表作「ラデツキー行進曲」です。
この二つを聞いてみると似てるところがあるような、ないような……。
というか、彼らの人生もそんな感じでした。
以下、2世を「ヨハン」、お父さんのほうを「1世」と書かせていただきますね。
父親が息子のヴァイオリンをぶっ壊し
ヨハンは、両親のできちゃった結婚で生まれた子供です。
父の1世は代々の音楽家の家出身ではなく、相当な苦労やライバルとの激闘の末に定評を得るようになった人です。
そのため自分と同じ苦労はさせまいと、嗜みとしてピアノを習わせる以外に、子供たちが音楽に触れることを許しませんでした。
しかし、優れた音楽家のもとに生まれたヨハンが、同じ仕事に憧れるのも無理のないことです。
少年ヨハンはこっそりピアノの弟子をとって少しずつお金を貯め、自分でヴァイオリンを買って、父親の身振り手振りを真似して練習をしていました。
あるときこれが1世に見つかってしまい、烈火のごとく怒られた上、大切なヴァイオリンをぶっ壊されてしまいます。
勝手に子供のもの、しかも自分でお金を貯めて買ったものを壊すとかサイテーですね。
しかもそれからまもなく、1世は若い愛人を作り、家庭を顧みなくなりました。

ヨハン・シュトラウス1世/wikipediaより引用
ヨハンの母・アンナは、家庭にも息子の夢にも冷たい夫の意見を尊重する必要はないと考えたのか。
積極的にヨハンが音楽に触れることを応援します。
新しいヴァイオリンを買ってくれた母に恩返しするかのようにヨハンはますます音楽にのめり込んでいきました。
1世の楽団の指揮者からこっそりヴァイオリンを教えてもらったり。
教会のオルガン奏者に頼んで楽典(楽譜を読み書きするための知識)を習ったり。
少しずつ理論と技術を学びます。
一方、どうしても息子の夢を阻みたい1世は、ヨハンにヴァイオリンを教えた指揮者を解雇したりしています。ムチャクチャや。
心が狭いというか頑固というか……そもそも「音楽家は食べていけないからやめなさい」とか普通に思いやりのある言葉をかけてやればいいと思うのですが。
「音楽家は20歳以上」の法律を乗り越え18歳でデビューへ
そんな感じで、父との確執と共にヨハンは音楽の才能を育てていきました。
音楽家がデビューするためにはコンサートを開かねばなりませんが、このときも1世があっちこっちに根回しをして、息子のコンサート開催を阻もうとします。
新聞記者に金を握らせて息子の中傷記事を書かせようとまでしたとか。
ここまで来ると、もう、コントですね(´・ω・`)
しかし、ずっと頑張ってきたヨハンだって簡単には引っ込みません。
新しくできた店にコンサート会場になってくれるようかけあったり、応援してくれる記事を書いてくれる新聞社に渡りをつけたり、積極的に活動範囲を拡大。
当時法律で「音楽家は20歳以上」という規定があったのですけれども、当時18歳だったヨハンは、それを逆手に取ります。
「うちの親父、愛人にかまけてて生活が苦しいんです。私一人で母や弟を養わなければならないので、どうか許可をください」
このように役人に訴え、特例として認められました。
世間からは「苦労しながらも家族を養う新人音楽家」として広まり、ヨハンを好意的に見てくれる人が増えたのだとか。そりゃそうですよね。
オーストリア訪問中に1848革命が起きる
コンサートは大成功し、ヨハンは華々しくデビューを飾りました。
母アンナは息子が立派にやっていけることを確信し、1世に離縁状を叩きつけ、正式に別れています。
そしてWヨハンはその後1年ほど激しく争いましたが、やがて打ち解けるようになり、1世が亡くなった後、1世の楽団メンバーをヨハンの楽団に組み入れたりしています。
正面からぶつかり合うとうまくいくってことなんですかね。
ヨハンは旅行や鉄道が大嫌いだったのですが、音楽家の宿命で、たびたび外国へも演奏旅行に行くようになりました。
そして23歳のとき、東欧へ行っている間にオーストリアで革命が起こります。
今日1848年革命と呼ばれているその余波が押し寄せたのです。
すぐに母国へ戻って様子を見ているうちに、市民側が優勢と判断したヨハンは、革命支持を表明するため「ラ・マルセイエーズ」を演奏しました。
現在のフランス国歌ですが、当時は革命を起こす側のテーマソングのような扱いをされていた曲だったのです。
当然、各国の宮廷には嫌われていました。
それをわざわざ演奏してしまったのですから、ヨハンもオーストリア宮廷から疑われます。
警察の監視をつけられたり、革命中の行動について尋問されたり。一時の出来心からかなりめんどくさい事態になってしまいました。
最終的には疑いも解けたようですが、そのタイミングで父が亡くなり、今度は文字通り忙殺されるようになります。
一晩で五件以上の演奏会をこなしたり、馬車の中で作曲をするような生活で、たびたび過労で倒れたとか。
母親も心配し、仕事を少しずつ弟達に分担することで、ヨハンの身体を回復させようとします。
しかし、余裕ができた分だけ新たな仕事が舞い込み、結局ヨハンは楽にはなりませんでした。
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