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週刊武春 合戦

米も麦も奪えば人身売買も日常茶飯事!戦国時代はリアル北斗の拳だった

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戦国時代は残酷だーーというと、そんなことは「当たり前だwwww」と返されるでしょう。

家督を継ぐために親兄弟で殺し合い。主君を謀殺して下克上。仇敵の子息は全員処刑。戦場での謀叛は当たり前。
と、こうした骨肉の争いは掃いて捨てるほど例がありますが、実はそんなことよりも切実に庶民たちを困らせたのが「インフラを破壊する」という行為でした。

ただ単に「敵の領地にいた」、それだけで生活を破壊される民の様子は、まさにリアル『北斗の拳』です。

さらには、大河ドラマ『おんな城主 直虎』で放送されたように、戦場では「人さらい」が横行し、奴隷として売買されることも多々ありました。
同ドラマでは他にも中世の慣習が、時にさりげなく、時にテーマ(村人の逃散など)となって取り上げられており、我々が想像しがちな「イケメン武将たちが戦場を疾走するゲームワールド」ではないことを実感させてくれます。

戦国時代は生々しく、時に目を背けたくなるようなムゴい世界――。

要はそういう一面もあり、では、ドラマや漫画ではほとんど描かれない、戦国のリアルとは一体どんなものだったのか?
一つずつ見て参りましょう。

 

「刈田」……ヒャッハー! 稲は掠奪だー!

合戦をする上で必須なのが兵糧です。
兵が身につけて持参する他に、小荷駄で運ぶのが通例でしたが、戦場へ貴重な食料を運ぶってことは途中で奪われる危険性もありますし、人的リソースも必要になりますよね。

要はジャマ。
ならば運ばないで敵地で取ってやろう!というのが、当時の賢い解決法になります。
それが戦国ファンにはおなじみの「刈田」です。

作戦の一つと言ってしまえばそれまでですが、農民たちが手塩にかけた稲を収穫寸前に刈りとってしまうのですから、あまりに酷。

「刈田」はわらわらと群がって兵たちが勝手に取るのではなく、皆で一斉に統率の取れた行動で取り、刈り取ってから改めて分担することもあったようです。
つまり慣習化されていたんすね。

そして、こうした手段は極悪非道と呼ばれる大名や武将だけが行うのではなく、どの大名も大体が行っています。義将として名高い上杉謙信ですら、雑兵たちに食わすため関東へ出兵していたと指摘する研究者もいるほどです。

ただしこの「刈田」にはリスクもあります。
田んぼに入って稲刈りをしているところに敵が襲いかかってくると簡単にやられてしまうのです。
ゆえに敵襲に備えて警戒部隊も用意されており、刈田実働部隊とは別れて行動しておりました。

いかに組織的に行われていたか。ご理解いただけるでしょう。

 

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「麦苗薙」……麦も稲も育てたって何の意味もねえのによお!

「刈田」は秋に行います。一方で「麦苗薙」は初夏に行う収奪です。
読んで地のごとく、麦を刈り取ってしまうことです。

稲も麦も同じようなことだと思うかもしれませんが、「麦苗薙」はさらに凶悪な要素がありました。
この収穫期はちょうど田植えの時期にあたります。
つまり、麦を掠奪するのとセットで田植えが行われたばかりの水田を破壊できるのです。

初夏にその年の秋の収穫分まで台無しにするという凶悪さ。
攻撃側からすれば一石二鳥ですが、こんなことをされたらそこに暮らす領民の生活はどうなってしまうのでしょうか。
こうした行為も、一種の兵糧攻めと言えます。城に籠もった敵を飢えさせるだけが兵糧攻めではなく、地域全体の食料を削るという手法もあったんですね。

また、麦は収穫に時間がかかるため、時間がない場合はともかく畑を破壊したり、麦を踏み倒して収穫できないようにしました。
仕上げに放火することもありました。極悪すぎるやろ。

 

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「黒土」「七尺返し」……農地は台無しだー!

せっかく植えた苗を踏みつけ、実った稲や麦を台無しにしてゆく戦国武士たち。
これだけででも十分酷いのですが、さらに彼らは徹底的に農地を破壊します。

戦国大名の書状には
「黒土にしてやった」
「辺り一面黒土になってしまう」
なる表現があります。

どういうことかというと、土の上にあるものをすべて破壊し、掘り返してしまうということです。
掘り返したばかりの水分を含んだ土の色を「黒土」と表現しているわけです。
武士が合戦に持っていくものといえば鉄砲や槍を思い浮かべるでしょうが、鋤や鍬といった農機具も持参していました。そうしたものを用いて土を掘り返すわけです。

「七尺返し」という表現もあります。
「七尺」というのは2メートルを越えるわけですが、実際にそれだけ掘り返したというよりも、ともかく徹底的な深さまで掘り返したという表現だと思います。

実際に農作業を経験した方はわかるかと思いますが、石やゴミも埋め戻してしまうような無茶苦茶な土の掘り返し方をされたあと、きれいに耕し直して畑に整備するのは大変な手間がかかります。
既に収穫した作物、植えた苗だけではなく、植えるための農地まで徹底的に破壊してゆく戦国時代。非情な時代です。

 

破壊行為を禁止した大名もいますが……

こうして見ていくと戦国大名は民を何だと思っているのか、あまりにひどいのではないかと思う人もいるでしょう。

もちろん、すべての大名がそうではありません。
では心優しい大名も存在したのか?と問われたら、それほど単純な話でもありません。

合戦後に統治するような場所でインフラを破壊してしまっては、その後、治めることも難しくなります。
ゆえに味方となるような土地で荒らすことは極力控えます(禁止のお触れが出たりします)。

反対に、ともかく相手に打撃を与えることが目的で、統治を考えていなければ破壊も辞さないわけです。
具体的にあげますと、武田信玄・上杉謙信・北条氏康の三者が絶え間なく争っていたような状況下では、こうした破壊行為を互いに行い、牽制しあっていました。

こうなるともう、食料が少ないから奪い合ったのか、奪い合い&潰し合っていたから食料が少なくなったのか、因果関係の前後がわからなくなってくるほどです。

さて、最後に人身売買である「人取り」についても触れておきましょう。

 

「人取り」……雑兵たちの戦利品

ルイス・フロイスをご存知でしょうか?
戦国時代に各地の様子を『日本史』として著した宣教師であり、その中で彼は「この国では食うために戦う」そして「人さらいも頻繁に行っている」と述べております。

フロイスの記述は大げさだ!――として時に重要視されないこともありますが、何もこの「人取り」はフロイスの著作だけでなく国内にも数多く記録が残されていて、否定しきれない事実と目されております。

例えば名将として名高い武田信玄。
その功績をまとめた『甲陽軍鑑』には「越後へ侵入して女性や児童を乱取りし連れ帰って召使(つまり奴隷)にした」なんて表現もあり、それを恥じるどころか「信玄公のご威光である」「甲斐の生活が豊かなのも信玄公のお陰である」と誇るような記述があります。

赤備えの山県昌景や、無傷の馬場信春など。輝かしい功績に目のいく武田ファンの皆様には気分の害される話かもしれません。

ただ、これには少し説明が必要で、武田家としても、人や物を奪い取る「乱取り」ばかりを行う連中を蔑視しておりました。戦場で讃えられるのは敵の首をあげた勇猛な武者――というのは今の評価と変わりません。

しかし、その一方で、雑兵(足軽の更に下にいるような農民や民衆たち)たちがいなければ戦争も成り立たないのも事実で、彼らの行為を「褒めはしないけど、戦争で働いてくれたら、敵からは何をとってもよいよ」ということを承知していたのです。

むろん、これは武田家に限った話ではありません。
島津と龍造寺との戦争では「人取り」に成功した雑兵たちが、城を落とす前に「もうお腹いっぱい」とばかりに帰国してしまった――なんて例もあります。
あるいは上杉家でも、あまりに略奪行為が凄まじくてこれを禁じるお触れもだされたことがあるほどでした。

というか「人取り」「乱取り」を禁じる記録はさして珍しくもないかもしれません。
なんせ後の将軍となる徳川軍でも普通に出されていたものです。
北条との戦いで徳川家康は味方についた村への「いっさいの人取りを禁ずる」という命を出しており、その中で「奪い取った者を送り返せ」とか、人だけでなく「牛馬もとるんじゃない!」なんて趣旨で自軍へ伝えておりました。

勘の良い方なら、もうピンときたかもしれません。

禁ずる――という記録がキッチリ残っているということは、その裏では何倍もの略奪行為が行われてきたことの証左でもありましょう。
こうした卑劣な行為が現代であまり注目されないのは、前述のように「乱取り」が武士としては褒められた行為ではなかったこと、雑兵たちを戦場に駆り立てる「飴」であったことが原因かと思われます。
雑兵たちが行うだけで、普通の武士はカッコ悪いからやらないんすな(ただし、合戦に参加するのは雑兵たちが圧倒的に多い)。

※鷹狩が大好きだった織田信長さんは「乱取」と名付けた鷹を飼っており、『信長公記』にも堂々と表記されております。息子に「奇妙丸」と名付けるような抜群のネーミングセンスが、鷹にも現れてますね

いずれにせよ大河ドラマ『おんな城主 直虎』の中で瀬戸方久が述べていたように戦場での「人取り」、そして人身売買はさして珍しくもないことでした。たとえば戦争が終わった直後の城下町では「取引所」が設置されるほどで、井伊直虎が買いに行こうとしたのも、あながち創作だけの世界じゃないんですね。

もちろん、その実態はおそろしく生々しいものです。
今も残る資料の中には、人さらいのことを指して「男女、牛馬、数知れず」だの「十五、六の童子」だの「足弱(女・子供)を百人ばかり御取り」だの、目を覆いたくなるような表現が並んだりするのです(記事末の書籍『雑兵たちの戦場』には驚くほど多数の事例が紹介されており、本記事の参考にさせていただきました)。

戦国時代はエネルギーにみちあふれていて、今も私たちをひきつける力があります。

その一方でリアルに、生きることが厳しい時代でした。
現代の我々であれば、一日がかりで入力したデータがパソコンの不調で吹っ飛ぶだけでも哀しいもの。ましてや何ヶ月も掛けて育てた稲や麦を武士たちに掠奪破壊されたら、どれほど辛いことでしょうか。

合戦の裏には民の苦難もあったことを、忘れないでいたいものです(とはいえ民たちも、敗軍の将兵にはここぞとばかりに襲いかかったり、戦争前にお金を渡して戦火を免れようとしたり、あるいは雑兵として戦争に参加したり、単に弱いだけの存在でもなかったのではありますが、やっぱり村は襲われやすい立場であり、一度戦火に巻き込まれれば地獄絵図と化しました)。

小檜山青/記

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参考文献




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


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