上杉謙信

上杉謙信/wikipediaより引用

武田・上杉家

上杉謙信の生涯|軍神や越後の龍と称される49年の事績を史実で振り返る

2025/01/20

上杉謙信というと、どこか「神がかった」人物を想像してしまいませんか?

我は毘沙門天なり――。

義の下に出陣すべし――。

そんなセリフがいかにも似合いそうで、大河ドラマ『風林火山』におけるGACKTさんも神秘的なイメージをまとっていましたね。

しかし、フィクションはあくまでフィクション。

史実の上杉謙信は、とにかく短気でキレやすい一面があり、しかも当人がそれを悩んでたりします。

確かに合戦もズバ抜けて強かったかもしれませんが、現実問題、関東出兵(越山)は何度も行って支配領域は広がっていませんし、北信濃も結局は武田のものでした。

いったい上杉謙信とは?

上杉謙信/wikipediaより引用

享禄3年(1530年)1月21日に生まれ始まった、その生涯を振り返り、軍神の史実に迫ってみましょう。

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上杉謙信が生まれた越後長尾氏とは?

上杉謙信は享禄3年(1530年)1月21日、越後国の守護代・長尾為景の次男として生まれました。

幼名は虎千代。

以後、上杉謙信の名を名乗るまで、姓は長尾、名は景虎・宗心・政虎・輝虎……と何度も改名しています。

そんな彼の生まれた長尾氏は、もともと桓武天皇の流れをくむ坂東八平氏の一つで、南北朝時代に足利氏と共に発展しました。

一族が直接仕えたのが上杉氏です。

上杉氏の家紋「上杉笹」/wikipediaより引用

上杉氏が【関東管領】の職に就くと、長尾氏も関東を中心に所領を拡大。

その分流が越後に入り、越後守護となった上杉氏と共に守護代として実権を握るようになります。

室町時代の統治システムは大まかに、

守護……京都で政治担当

守護代……現地を管理&支配

というように分かれており、実際に越後を支配していたのが長尾氏でした。

そして時代が進むと、全国的に守護と守護代で対立が生じるようになり、ご多分に漏れず越後上杉氏と越後長尾氏の間でもトラブルが勃発します。

永正3年(1506年)、謙信の父・長尾為景は家督を継ぐと、主君である守護・上杉房能(ふさよし)を殺害して、お飾りの守護・上杉定実(さだざね)を擁立、越後長尾氏の権力を強化しました。

一方、房能の殺害にブチ切れたのが房能の兄、関東管領の上杉顕定(あきさだ)でした。

顕定は弟の仇を名目にして越後へ侵入すると、いったんは上杉定実と長尾為景を国外に追放します。

むろん、為景も黙ってはおらず、関東の長尾景春と協力して後北条氏と手を組み、顕定の勢力を脅かしました。

なると、周辺エリアでも顕定に反発する動きが出てきます。

支持を失った顕定はみるみるうちに落ちぶれ、復帰した為景の手により【長森原の戦い】で殺害されました。

こうして越後における実権は為景が握ることとなったのですが……一方で反乱分子も渦巻いていました。

 


初陣は14歳 栃尾城の防衛だった

上杉謙信には3歳上の兄・長尾晴景がおり、家督を継ぐことは決まっていました。

つまり、謙信は後継ぎとして育てられたわけではありません。

母は虎御前とされることもありますが、実のところ素性はハッキリしておらず、昨今の研究でも不明とされたりします。

きょうだいは、晴景のほかに仙洞院(仙桃院)という姉がいて、彼女が後に上杉家当主となる上杉景勝を産んでいますね。

謙信の姉・仙洞院と、その夫・長尾政景/wikipediaより引用

そんな謙信の幼少期は?

当時の越後国内は、反為景勢力が蜂起して内戦の様相を呈していました。

彼らは傀儡となった定実を担いで上杉氏の支配を取り戻そうとし、最終的に為景は、家督を息子の晴景に譲ると、第一線から身を引きます。

なぜ為景は引退したのか――というと、1年後に亡くなっていることから死期を予感していたとか、反対勢力の圧力とか、はたまた為景と晴景の親子対立など諸説ありますが、いずれにせよ家督を継承した晴景最初の仕事は、反発勢力との対峙でした。

そこで登場となるのが弟の謙信です。

幼少期から春日山城下の林泉寺に預けられ、仏教の修行に明け暮れていた謙信は、当時14歳ながら晴景の命により栃尾城(とちおじょう)へ。

後年自身が語ったところによると

「近場の連中が『ガキンチョが城を守っているwww』とナメてかかってきて防衛戦になった。それが初陣だった」

ということです。

秋葉公園から眺めた栃尾城本丸跡/wikipediaより引用

さほど大きな戦ではなかったため、現在、謙信の初陣が語られることはあまり無いですが、当時の近隣勢力にとっては中々の衝撃だったようで、国衆や家臣の支持を獲得したとも伝わります。

 

自身の武力で家督継承を勝ち取る

14歳の初陣を立派に飾った謙信。

それに対し兄の晴景は、父の代から続く敵対勢力との抗争に苦しめられます。

天文16年(1547年)、越後上杉氏の家臣であった黒田秀忠という人物との対立が表面化。

秀忠は「晴景なんてザコでしょ」と構え、晴景の弟を殺害する挑発行動に出ます。

その討伐を任されたのが謙信でした。

速攻で秀忠を滅ぼそうとすると、その実力に恐れをなしたのか、晴景は「髪を剃ります!他国へ行きます!」と急にトーンダウンしたので、やむなく秀忠を許します。

ところが「噓でしたw」とばかりに再び秀忠が謀反を起こすと、今度は上杉定実の許可が下り、謙信は本気で秀忠の討伐に動きます。

戦の詳細について詳細は不明ながら、謙信が大勝したことは間違いないでしょう。

なぜなら戦後、黒田一派は悉く自害に追い込まれたのです。

秀忠軍をあしらうように撃破した謙信は、この一戦で国内評価も急激に高まっていきました。

逆に兄の晴景は、身体が病弱であり、かつ秀忠の暴走を許したこともあって、徐々に謙信支持派が増えていきます。

父・長尾為景の代から反発を続けていた上田長尾氏一派は謙信の家督継承に反対でしたが、謙信と比較したときの晴景は明らかに器不足であり、結果、武力衝突することなく兄は引退に追い込まれます。

そして上杉謙信は、正式に長尾家の家督を継承したのでした。

つまり謙信は、自身の「武力」を背景に家督の座をつかんだことになります。

長尾家は由緒正しい家柄なので、戦国時代の下剋上を語る場面で謙信が登場することはほぼありませんが、彼もまた成り上がりを体現した一人と言えるかもしれませんね。

 

上田長尾氏にケンカを売られ

遺恨として残ったのは、上杉謙信の家督継承に反対していた上田長尾氏。

当然、あっさりとは従いません。

当主の長尾房長・政景親子は謙信の所領安堵に反発し、人質の供出を拒否すると、上田近隣の領主である宇佐美定満の館へ放火もほのめかす挑発行動に出ました。

早い話、ケンカを売られたワケです。

宇佐美定満(宇佐美定行)・歌川国芳作/wikipediaより引用

謙信としても黙って見過ごすわけにはいきませんが、それでも「討伐したくないな…」と考えていたようで、最終的には政景らと交渉の上で講和を結びます。

当初は抵抗していた上田長尾氏も、正面きって謙信とは戦いたくなかったのでしょう。

一方、天文19年(1550年)には形式上の主君である上杉定実が死に、越後守護上杉氏は断絶しました。

主君が死んだことで実質的な越後国主の座を得た謙信も、形式上はまだ守護代の状態。

そこで自身の格式を高めるべく、室町幕府への接触を始めると、同年、家臣の神余親綱を通じて「白傘袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」の獲得に成功しました。

通常は守護しか使用が許されていないアイテムであり、「実質的にあなたは守護ですよ」という意味を持ちます。

もちろんタダとはいかず、謙信はその返礼品として太刀、さらには現代価値でざっくり300万円ほどの銭を送っています。

同時に謙信は、越前の朝倉氏・近江の六角氏にも接近し、「オレ、守護格になったんだぜ」ということを対外的にアピールしました。

とまぁ、この時期の謙信は国外にも関心を払っており、とりわけ注目したのが関東の情勢です。

先ほどから関東管領上杉氏との関わりに触れてきましたが、当時の関東管領・上杉憲政は危機的な状況を迎えていました。

足利氏の系譜にある古河公方と対立し、さらに山内上杉氏と扇谷上杉氏が分裂。

そうこうしているうちに後北条氏の拡大路線に押され、敗れた憲政は越後へ落ち延びてきました。

彼は謙信に「山を越えて関東を制してはくれまいか?」として【越山】を要求します。

そのろ京では、重大局面を迎えていました。

将軍・足利義輝が三好長慶によって都を追われ、近江で過ごすことを余儀なくされていたのです。

 


最大のライバル・信玄とバトル勃発

関東へ進出することになった上杉謙信。

最初はほとんど成果もなく帰国しており、ほんの「顔見せ」程度だったのではないかと指摘されています。

それより問題がありました。

隣国・信濃です。

甲斐の虎こと武田信玄が急激に版図を広げており、越後を脅かす勢い。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

かつて信濃で力を握っていた諏訪氏はすでに武田に滅ぼされており、北信濃の村上義清と激戦を繰り広げます。

越後と国境を接する北信濃を陥落されると、国防上の観点からシャレにならず、信玄相手に粘りを見せていた村上勢が敗れると、いよいよ衝突は避けられない状況でした。

そこで朝廷から大義名分を得た謙信は、信濃への出兵を決意。

天文22年(1553年)、義清の救援要請に従うカタチで出陣すると、戦国屈指の合戦【川中島の戦い】が始まります。

第一次川中島の戦いは、上杉勢が武田勢の侵攻を食い止め、彼らの快進撃を阻止しました。

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織田信長ha上洛戦で倒した敵ぜんぶ確認!

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とにかく不思議なのはその後のこと。

不安定な政情だった京都へ、わざわざ上洛しているのです。

「先年の贈り物に対するお礼」を名目として後奈良天皇に拝謁し、朝廷から厚遇はされますが、自ら越後を離れるとはなかなか大胆ですよね。

よほど嬉しかったのでしょう。

「先祖代々これほどの幸せはなかった」と喜びをあらわにし、家格を向上させます。

同時に謙信は、本願寺や高野山、大徳寺などの宗教勢力を重視しており、仏教のルールである「三帰五戒」と、「宗心」という法号を授かりました。

なぜ、法号など名乗ったのか、その理由は不明です。

謙信が仏教を信仰していたことは確かですが、24歳で法号を名乗るのは若すぎる。

この点を根拠に「謙信は晴景の嫡男に家督を譲る予定の『中継ぎ君主』だった」とする説もあるほどです。

「三帰五戒」の中には、戦国大名としては致命的な「殺生の禁止」もあり、謙信が何を考えていたのか、今なお議論の的になっています。

 

「もう上杉家の当主辞めるわ」

帰国後の上杉謙信は、弘治元年(1555年)、再び信濃へ侵攻してきた信玄を迎え撃つべく、兵を出します。

【第二次川中島の戦い】です。

前回の第一次と異なり、この戦いは長期戦となりました。

あまりに戦が膠着するため、さすがの謙信も信玄も家臣の士気低下に悩まされ、両者共に内心は諦めていたことでしょう。

そこで駿河の今川義元を頼み、講和が結ばれます。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

川中島古戦場史跡公園の信玄謙信一騎討ちの像
たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した 第二次川中島の戦いを振り返る

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その直後の弘治2年(1556年)、謙信は予想だにしない行動に出ます。

突然「上杉家の当主辞める」と引退宣言を出し、越後を離れて、ひっそり隠居しようとしたのです。

特に健口を害したワケでもない20代半ばの戦国大名が、なぜこのような暴挙に出たのか。

謙信自身が語ったところによると、こうです。

「当主になってから国をまとめたり、幕府との交渉で家の格を上げようと頑張ったけど、家臣たちが争ってばっかりでやってられん!

上杉家には『優れた家臣』もいるから、別に自分がいなくても大丈夫だろ!

遠くから越後の様子を眺めてるから、後は頑張れや!」

かなりの超訳ですが、ともかくバラバラな家臣団に嫌気が差してしまったのでした。

『芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎』(月岡芳年作)/wikipediaより引用

実際、謙信は本当に家を出て、家中は混乱状態。

「殿さまが隠居するとか言い出したので、家中が機能不全になってしまいました」

なんて書状も残されるほどの有様となります。

謙信のこの態度には、彼なりの考えがあったと指摘されます。

最終的に、家臣の慰留によって引退を撤回するのですが、こうしたパフォーマンスで「謙信が必要だ」と痛感させたのではないかというワケですね。

なお、当主の座を投げ出した謙信を説得したのは、敵対してきた長尾政景であったとも言われます。

政景は説得に際し「戦から逃げるのですか!」と詰め寄り、当主復帰の決め手にもなったとか。

その話が本当なら、反抗しがちな政景を取り込めただけでも成功だったかもしれませんね。

名をふたたび「景虎」に戻した謙信は、武田氏との抗争を再開するのでした。

 


第三次川中島の戦いから二度目の上洛へ

弘治3年(1557年)、上杉謙信は信濃の更科八幡宮に「願文」という文書を出し、神への祈りをささげました。

その際、信玄を「佞臣(ねいしん・邪でずる賢い奴)」呼ばわりし、信濃を破壊して回る大悪党ゆえ正義のもとに征伐する!と宣言。

このあたりから謙信の一般的なイメージ「義」が打ち出されたりしますが、越後上杉家の滅亡により支配の正当性を失った謙信による演出ではないかとも指摘されます。

信玄の侵攻に危機感を強めた謙信は、雪中を進撃してその勢いに対抗。

「義戦」と称して上野原(現在の長野県長野市付近)にて【第三次川中島の戦い】が始まりました。

この戦いは詳細が不明であり、大規模な戦闘はなく、上杉軍の焼き討ちが主な内容だったのでは?とも言われたりします。

しかし、引退騒ぎでゴタゴタしていた謙信が「北信濃は譲らぬ!」という姿勢を打ち出し、信濃の国衆を従属させたことにより、押されっぱなしだった同エリアで足掛かりを築くキッカケになったという見解も。

第三次川中島の戦い
第三次川中島の戦いは「真田の調略」と「信玄の緻密な攻城戦術」に注目だ!

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13代将軍・足利義輝から「そろそろ信玄と講和してはどうか」という連絡を受け取ると、義輝の京都入り復帰に合わせて二度目の上洛を果たします。

この上洛は、実に大規模なものであったとされ、謙信は5,000人を超える兵を連れていったとされます。

ただし、京都市中に大軍が入ることは警戒され、その大半は近江の坂本へ残され、ごくわずかのお供を引き連れ入京しました。

謙信は将軍を補佐する【相伴衆】の地位や、数多の格式高い贈物を受け取り、家格の上昇だけでなく信濃国支配の正当性も手にします。真の狙いは、おそらくこの辺りでしょう。

450上杉謙信が二度目の上洛時に正親町天皇から下賜された短刀「五虎退」/wikipediaより引用

しかも長い間、在京しており、京都で様々な活動を体験しています。

特に謙信は歌道に凝っていたので、歌会や宴会に参加しては大酒を飲んでいたとか。

こうした京での活動中に近づいてきた公卿が関白・近衛前久でした。

「京都はもうどうしようもないので、私を越後へ連れていってくれませんか」

前久も、余程のことだったのでしょう。

しかし、この話は幕府に露見したため最終的にご破算となり、「越後を失ってでも将軍に仕える!」と強い態度をもっていた謙信も帰国を余儀なくされました。

上杉謙信は、その帰路、河田長親という人物を連れ帰っています。

元々は近江六角氏の旧臣で、以後謙信・景勝父子を支える功臣となりました。

 

関東を蹂躙していた上杉軍

永禄3年(1560年)、上杉謙信は再び越山を決意します。

北条氏の侵攻に苦しむ佐竹氏や里見氏、さらには上杉憲政らの要請を受けてのもの。

この一件もまた「義」の象徴として語られがちですが、出陣の主体はあくまで憲政自身であり、「苦しむ憲政を助けてやった」という構図は、必ずしも当てはまりません。

謙信は信玄の動向に気を払いつつ関東へ進出し、各地で暴れ回ります。

上野国から入り、まずは北条方の明間城・岩下城・沼田城に襲い掛かりました。

特に沼田城攻めは「城主の北条康元を含め数百人を討ち取った」と豪語するほどの大戦果(諸説あり)。

古河公方・足利義氏をして「越後の凶徒」と言わしめた謙信の猛攻を前に、関東たちの国衆たちも「こりゃタマラン」とばかりに次々に支配下へ下ります。

謙信は最後に明石城を落とすと、憲政の旧領だった上野国の回復も戻りました。

さらに南下した謙信は、ついに武蔵国へ侵入、関東の諸勢力はかなりの数が謙信方に味方します。

彼がどれだけ恐れられていたか、よくわかる展開ですね。

破竹の勢いの上杉軍は、やがて難攻不落の名城と称えられる小田原城を囲み、北条氏にプレッシャーをかけました。

小田原城

この小田原城攻防戦をめぐり、軍記物などでは

「関東を蹂躙していた上杉軍が本気で城を落とそうと試みて、それを跳ね返したために小田原城は難攻不落の名城と呼ばれる」

という語られ方をします。

しかし実際は、武田軍と今川軍が北条氏の援軍に出る構えもあり、本格的な攻城戦は仕掛けずに包囲は解かれます。

もし謙信がフルパワーで小田原城を落としにかかっていたらどんな結果だったのか?

非常に気になるところですね。

なお、二度目の関東攻防戦では、北条方の3万ともいわれる大軍に包囲された【唐沢山城の戦い】も有名です。

当時は上杉方の佐野昌綱が城を守り、寡兵ながらしぶとい防衛戦を続け、落城寸前まで粘っていました。

この危機に全速力で越後から参上した謙信は、甲冑もつけず槍一本と40騎ばかりの部下だけを率いて敵陣に突撃。

「夜叉羅刹とはこのことか」と伝わる凄まじさで、北条方は誰も手出しができなかったと伝わります。

いくらなんでもこの話は創作でしょうが、それでも謙信が後世でどのようにとらえられていたかを示すエピソードとしては価値があるかもしれません。

話を戻しまして、小田原城を諦めた上杉軍は、鎌倉で鶴岡八幡宮を参詣し、憲政からは関東管領の職と上杉家の名跡を得ます。

名実ともに格式高い武将の一人となったのです。

もともと謙信は関東管領にこだわっていましたが、一方で動きを縛る足かせになったという見解もあります。

信玄と戦いながら関東にも手を伸ばすのですから、相当な負担でした。

 


苦境に追いやられていく謙信

越山に一区切りをつけて帰国した上杉謙信。

かねてから越後行きを希望していた近衛前久を、信玄との合戦に備えて古河城に入れます。

また、新たな古河公方に就任させた足利藤氏と上杉憲政も同城に入り、来るべき決戦に備えました。

そして永禄3年(1560年)5月19日。

信玄との戦いの中で最も激しい展開となった【第四次川中島の戦い】が始まります。

山本勘助が考案したとされる「啄木鳥戦法」だけでなく、「車懸りの陣」「鶴翼の陣」、あるいは謙信と信玄が直接刃を合わせた逸話などが有名ですが、いずれも『甲陽軍鑑』などの二次史料が出典とされます。

激しい戦闘があったこと自体は間違いありませんが、実は勝敗も定かではありません。

第四次川中島の戦い
第四次川中島の戦い~信玄vs謙信の一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由

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第四次川中島の戦い後、謙信は再び関東へ目を向け、今度ばかりは苦戦を強いられました。

古河城で上杉憲政と近衛前久を引き取ったのですが、古河公方の藤氏は放置。

前久と藤氏との間で不仲があったともされ、越後帰国後に、前久は謙信の説得を無視して帰京してしまいます。

謙信は怒り、せっかくの二人の仲も決裂してしまいます。

その後、謙信は先の越山で落とした松山城を失うなど、関東攻略は上手くいきませんでした。

加えて永禄7年(1564年)には、謙信を引退の立場から呼び戻した長尾政景が亡くなってしまいます。

政景の最期は、船上で酒宴中、酔って水へ入った事故死という話がある一方、政景が謙信にそむいた過去から暗殺説も囁かれます。

しかし、当時の政景は服従を誓っており、謙信も厚く彼を信頼していたことから、事故死の可能性が高そうです。

同時期には【第五次川中島の戦い】も勃発しましたが、前回のように大きな激突はなく両軍は兵を引きました。

ただ、悪い事は重なるもので。

京都の足利義輝が【永禄の変】で殺害され、謙信もかなりのショックを受けたとされます。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

続いて、再びの越山では、かねてより包囲していた小田城を攻略するも、臼井城で手間取り、北条氏の援軍と城を管理する原氏の粘り強い抵抗によって兵を引かなければなりませんでした。

この失敗は手痛いもので、関東の親上杉派勢力が次々に北条氏へ鞍替え。

失意の底に落とされた謙信は、願文に「自分はキレやすくて失敗ばかりだ。もっと健気に生きたい」と書いてしまうほどです。

実際、謙信の「キレやすさ」には家臣達も困っていたようで、彼自身もそれを気にしていた節が伝わってきます。

 

踏んだり蹴ったり 滅亡を意識するほど

結局、何の手柄もなく関東から引き揚げなければならなかった上杉謙信。

永禄10年(1567年)には、これまでほとんど語られてこなかった武田信玄との戦いもあったとされ、翌年には上杉軍の主力部隊である揚北衆の一角・本庄繁長に謀反を起こされます。

歌川国芳の描いた本庄繁長/wikipediaより引用

まさに踏んだり蹴ったりと言うべきか。表向きは和睦に前向きな信玄も、裏では反謙信勢力を扇動して隙をうかがっていました。

このころの謙信は本気でピンチだったと言えるでしょう。

本庄繁長をどうにか降伏させますが、「滅亡」を意識しなければならないほど追い込まれています。

ところが、です。転機は思わぬところからやってきました。

武田氏と今川氏の同盟関係が崩れ、信玄が今川領へ侵攻したのです。

この一件で【甲駿相三国同盟】が破綻すると、武田vs北条という展開が急浮上。

北条氏は、武田勢の裏切りに怒り、これまで敵対していた上杉氏との講和が、現実的な選択肢として浮かんできます。

しかし謙信は、信玄の侵攻に苦しむ北条を助けはせず、関東の国衆たちの意見も紛糾して、すぐに北条と上杉の同盟は成立しません。

それでも北条氏が謙信に譲歩する形で交渉は進められ、どうにか越後と相模の【越相同盟】が成立。

北条から上杉へ、人質という形で北条景虎が送られ、生涯妻をもたず、後継者のいなかった謙信の養子として将来を期待されます。

しかし、です。

この越相同盟は、すぐに破綻してしまうのです。

もともと謙信は、北条氏政をかなり毛嫌いしており「ウラオモテのある奴」呼ばわりしていました。

北条氏政/wikipediaより引用

一方の北条も、謙信の援軍要請に応えず、信長や家康との関係を重視していたことも影響しいてたのでしょう。

結局、北条氏康が死んだ後の氏政は、武田氏との接近を選択し、謙信は

「こんな大バカ者と同盟を結び、同盟に反対していた関東の諸将を敵に回したことを後悔する」

と嘆いています。

とにかく謙信は氏政のことが嫌いだったようで…。

なお、同盟が手切れになっても、景虎が北条に送り返されることはありませんでした。

上杉一族として厚遇され、後継者の有力候補であり続けたのです。

 

信玄が西上したので織田・徳川に接近

北条氏政とすぐに決裂はしましたが、越相同盟により関東での争いに一旦区切りがついた上杉謙信は、北陸へ目を向けていました。

狙いは越中です。

しかし、父・長尾為景の代から根強かった越中の抵抗は、謙信の代になっても同じでした。

元亀3年(1572年)に加賀の一向一揆衆が挙兵すると、信玄の息がかかった椎名氏も呼応して謙信にプレッシャーをかけます。

単なる一揆勢と侮るなかれ――彼らは上杉軍の最前線部隊と互角に渡り合うどころか、神通川付近での戦では大勝を収めるのです。

謙信は、関東の戦況にも気を配らなければなりませんでした。

北条氏とは手切れになっていたので、警戒を怠ることはできなかったからです。

それでも越中を攻め落としたかった謙信は自ら参陣し、できるだけ大軍に偽装する工作や、鉄砲の脅威を避けるための夜間行軍など、工夫を凝らして一揆勢と対峙。

敵の指導者が入る富山城を落とし、以後、上杉軍が優勢になっていきます。

政治外交の状況が変化したことも、謙信に味方しました。

このころ都では、織田信長と足利義昭の対立によって【信長包囲網】が形成され、信玄が西上作戦を展開したのです。

足利義昭と織田信長/wikipediaより引用

結果、信玄からの圧力が消え、信玄が敵対した織田・徳川の両勢力と上杉が接近。

さらに関東情勢に目を向けると、北条氏が佐竹氏に敗北していました。

これを見た謙信は「氏政は関東でも勝てないのにオレの相手するとか笑わせんなw」と煽り倒しています。

本当に氏政のことを嫌い過ぎてますね。

 

信玄が死んだと思ったら信長との関係が悪化

元亀4年(1573年)、上杉勢に激震が走ります。

最大のライバルだった武田信玄が陣中で病を発症し、亡くなったのです。

武田家に伝わる伝説では「ワシの死は3年隠せ」と命じたとされますが、上杉謙信は家臣の報告によってその死をすぐに聞き及んだようです。

絵・富永商太

道は開けた――。

謙信の前途は一気に開けたといっても過言ではありません。

信長包囲網はこれにて崩壊。同盟相手である織田の足元が固まってくると、関東について「信玄がいなけりゃ氏政なんてザコ」と一蹴しています。

やがて信玄の死をハッキリと確信した謙信は越中へ攻め込み、苦戦しながらも徐々に勢力を広げていきます。

やはり北条氏政を痛い目に遭わせたかったのでしょう。越山にも乗り出しますが、利根川の増水と協力者の作戦ミスにより成果を上げることはできません。

しかも、関東出兵に際しては、協力要請を黙殺した信長に対して不信感が増大し、両者の関係は悪化してしまいます。

佐竹氏の救援をめぐっては佐竹義重と意見が折り合わなかったほか、武蔵国最後の拠点であった羽生城も失い、この年の越山は完全な失敗に終わってしまいました。

なお、その後天正4年(1576年)にも関東出兵していますが、謙信にとってはそれが最後の越山になりました。

問題は織田との関係です。

両国は悪化の一途をたどり、武田に対する意見の相違や、謙信による足利義昭への協力姿勢が決定打になり、実質的な手切れとなりました。

天正3年(1575年)には悲願であった越中を制覇し、続いて能登を手中に収めるべく七尾城を囲みます。

謙信は攻城戦に勝利しました。

しかし、最悪の関係になっていた織田軍に動きがあり、徐々に衝突の時間が近づいてきます。

織田軍は加賀へ入り、いよいよ合戦は避けられなくなりました。

そして両軍が激突!

そう【手取川の戦い】です。

謙信自らが出陣する――そんな知らせを受けた柴田勝家らが退却しようとしたところ、上杉軍が襲いかかり、戦いは一方的な展開になったとされます。

鬼柴田と恐れられた柴田勝家(左)も軍神・上杉謙信には赤子のごとく?/wikipediaより引用

大勝に気をよくした謙信が

「織田軍って意外と弱いのなwこれなら義昭様の復権も余裕だわ」

と言い放ったという逸話も有名です。

能登も支配下に収めた謙信。

もはや行く手を阻む者は誰もいないという状況で、信玄が果たせなかった天下への野望が花開くかに思われました。

※手取川の戦いについては存在を裏付ける史料が少なく、実在を疑われることも

 

突然死で上杉家は真っ二つ

天正6年(1578年)3月9日、その時は突然やってきました。

上杉謙信は春日山城内で倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。

享年49での死は、北陸を制覇しつつあるタイミングを考えると、いささか早すぎた最期といえましょう。

上杉謙信の居城として知られる春日山城

死因については、彼が大酒飲みだったため厠で転倒し、そのダメージと考えられてきました。

最近は「脳卒中」が疑われていますが、直接的な死因と言い切れるかどうかは不明です。

上杉謙信
厠が誘発した上杉謙信の死~高血圧で冬場のトイレは踏ん張りが命取りになる

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問題は、謙信が遺した「二人」の養子でしょう。

一人は越相同盟に際して、北条家から引き取った上杉景虎で、もう一人は長尾政景の子である上杉景勝。

突然死だったため、謙信が後継者をハッキリと示さず、それが二人の対立を決定的なものにしたと考えられています。

景勝の主張によると「死の間際に私を後継者に指名した」とのことですが、正当性を主張するための言葉とも思え、真相はよくわかっていません。

ともかく元々内乱の多かった越後家臣団は、真っ二つに割れてしまうのです。

この家督争いは【御館の乱】と呼ばれ、一年にも及びました。

ただし、この戦いに勝利した上杉景勝は、その後、徳川家康の天下でも潰されることなくギリギリで家を存続させ、武田や北条と異なり、上杉は大名として幕末を迎えることができました。

上杉景勝/wikipediaより引用

 

「軍神」と呼ばれるようになった謙信

最後に「軍神」と呼ばれる程だった上杉謙信の「武名」について、着目しておきたいと思います。

謙信の名は、生前からすでに他国にも轟いていました。

なんせ敵対し続けた信玄生前の言葉に「日本無双の名大将」という言葉があるほど。

※信玄に仕えた僧侶・円昌坊教雅が記す

しかし、天下を取るまでには至らず、彼の跡を継いだ上杉景勝も徳川家の軍門に下っています。

それからのことです。謙信が上杉家中で神格化され、現代の「軍神像」が作られていったのは。

歴史家の今福匡氏は、以下のように分析します。

江戸時代の上杉勢は、偉大なる先祖を担ぐことで「機会さえあれば、もう一度天下を相手の戦ができる」という気構えを持ち、石高を大幅に減らされ極貧に落とされた不遇な身を慰めていたのではないか。

武田信玄と北条氏康と同時に敵対し、織田信長(正確には配下の柴田勝家)を一蹴。

確かに、謙信のエピソードはずば抜けており、生き残った子孫や家臣たちにとっては誇らしいものだったでしょう。

加えて、謙信自身が毘沙門天と呼ばれる軍神を信仰していたことも大きいでしょう。

実は毘沙門天を仰ぐ戦国大名は他にもいましたが、「私は軍神の加護を受けており、悪を征伐する義の男である」ということを謙信自らが積極的に発信していました。

謙信の偉大な経歴を知った後世の人物が、そのセルフプロデュースに引っ張られるのは自然なことでしょう。

上杉謙信所用の甲冑と伝わる「色々威腹巻」/wikipediaより引用

以上のように謙信は「軍神」「義の武将」というイメージで高く評価されてきました。

しかし、ここまで見てきた謙信の姿は、必ずしもその像とは一致しなかったのではないでしょうか?

なんせ謙信は、自分でも認めるほどの短気でした。北条氏政への執拗な態度などから見ても、感情が先行する人物だったことがご理解いただけるでしょう。

戦に関しても強いは強いけれど、常勝無敗ではありません。

むしろ手痛い敗北を喫して、苦しみながらもなんとか攻略していくというスタイルの戦い方が得意のように見えます。

軍神どころか人間臭い――。

当たり前ですが、上杉謙信だって神様ではなく一人の人間です。

今後は、そんな評価が進んでいってもよいのではないでしょうか。

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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