上杉謙信というと、どこか「神がかった」人物を想像してしまいませんか?
我は毘沙門天なり――。
義の下に出陣すべし――。
そんなセリフがいかにも似合いそうで、大河ドラマ『風林火山』におけるGACKTさんも神秘的なイメージをまとっていましたね。
しかし、フィクションはあくまでフィクション。
史実の上杉謙信は、とにかく短気でキレやすい一面があり、しかも当人がそれを悩んでたりします。
確かに合戦もズバ抜けて強かったかもしれませんが、現実問題、関東出兵(越山)は何度も行って支配領域は広がっていませんし、北信濃も結局は武田のものでした。
いったい上杉謙信とは?
享禄3年(1530年)1月21日に生まれ始まった、その生涯を振り返り、軍神の史実に迫ってみましょう。
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上杉謙信が生まれた越後長尾氏とは?
上杉謙信は享禄3年(1530年)1月21日、越後国の守護代・長尾為景の次男として生まれました。
幼名は虎千代。
以後、上杉謙信の名を名乗るまで、姓は長尾、名は景虎・宗心・政虎・輝虎……と何度も改名しています。
そんな彼の生まれた長尾氏は、もともと桓武天皇の流れをくむ坂東八平氏の一つで、南北朝時代に足利氏と共に発展しました。
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一族が直接仕えたのが上杉氏です。
上杉氏が【関東管領】の職に就くと、長尾氏も関東を中心に所領を拡大。
その分流が越後に入り、越後守護となった上杉氏と共に守護代として実権を握るようになります。
室町時代の統治システムは大まかに、
守護……京都で政治担当
守護代……現地を管理&支配
というように分かれており、実際に越後を支配していたのが長尾氏でした。
そして時代が進むと、全国的に守護と守護代で対立が生じるようになり、ご多分に漏れず越後上杉氏と越後長尾氏の間でもトラブルが勃発します。
永正3年(1506年)、謙信の父・長尾為景は家督を継ぐと、主君である守護・上杉房能(ふさよし)を殺害して、お飾りの守護・上杉定実(さだざね)を擁立、越後長尾氏の権力を強化しました。
一方、房能の殺害にブチ切れたのが房能の兄、関東管領の上杉顕定(あきさだ)でした。
顕定は弟の仇を名目にして越後へ侵入すると、いったんは上杉定実と長尾為景を国外に追放します。
むろん、為景も黙ってはおらず、関東の長尾景春と協力して後北条氏と手を組み、顕定の勢力を脅かしました。
なると、周辺エリアでも顕定に反発する動きが出てきます。
支持を失った顕定はみるみるうちに落ちぶれ、復帰した為景の手により【長森原の戦い】で殺害されました。
こうして越後における実権は為景が握ることとなったのですが……一方で反乱分子も渦巻いていました。
初陣は14歳 栃尾城の防衛だった
上杉謙信には3歳上の兄・長尾晴景がおり、家督を継ぐことは決まっていました。
つまり、謙信は後継ぎとして育てられたわけではありません。
母は虎御前とされることもありますが、実のところ素性はハッキリしておらず、昨今の研究でも不明とされたりします。
きょうだいは、晴景のほかに仙洞院(仙桃院)という姉がいて、彼女が後に上杉家当主となる上杉景勝を産んでいますね。
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そんな謙信の幼少期は?
当時の越後国内は、反為景勢力が蜂起して内戦の様相を呈していました。
彼らは傀儡となった定実を担いで上杉氏の支配を取り戻そうとし、最終的に為景は、家督を息子の晴景に譲ると、第一線から身を引きます。
なぜ為景は引退したのか――というと、1年後に亡くなっていることから死期を予感していたとか、反対勢力の圧力とか、はたまた為景と晴景の親子対立など諸説ありますが、いずれにせよ家督を継承した晴景最初の仕事は、反発勢力との対峙でした。
そこで登場となるのが弟の謙信です。
幼少期から春日山城下の林泉寺に預けられ、仏教の修行に明け暮れていた謙信は、当時14歳ながら晴景の命により栃尾城(とちおじょう)へ。
後年自身が語ったところによると
「近場の連中が『ガキンチョが城を守っているwww』とナメてかかってきて防衛戦になった。それが初陣だった」
ということです。
さほど大きな戦ではなかったため、現在、謙信の初陣が語られることはあまり無いですが、当時の近隣勢力にとっては中々の衝撃だったようで、国衆や家臣の支持を獲得したとも伝わります。
自身の武力で家督継承を勝ち取る
14歳の初陣を立派に飾った謙信。
それに対し兄の晴景は、父の代から続く敵対勢力との抗争に苦しめられます。
天文16年(1547年)、越後上杉氏の家臣であった黒田秀忠という人物との対立が表面化。
秀忠は「晴景なんてザコでしょ」と構え、晴景の弟を殺害する挑発行動に出ます。
その討伐を任されたのが謙信。速攻で秀忠を滅ぼそうとすると、その実力に恐れをなしたのか、晴景は「髪を剃ります!他国へ行きます!」と急にトーンダウンしたので、やむなく秀忠を許しました。
ところが「噓でしたw」とばかりに再び秀忠が謀反を起こすと、今度は上杉定実の許可が下り、謙信は本気で秀忠の討伐に動きます。
戦の詳細について詳細は不明ながら、謙信が大勝したことは間違いないでしょう。
なぜなら戦後、黒田一派は悉く自害に追い込まれたのです。
秀忠軍をあしらうように撃破した謙信は、この一戦で国内評価も急激に高まっていきました。
逆に兄の晴景は、身体が病弱であり、かつ秀忠の暴走を許したこともあって、徐々に謙信支持派が増えていきます。
父・長尾為景の代から反発を続けていた上田長尾氏一派は謙信の家督継承に反対でしたが、謙信と比較したときの晴景は明らかに器不足であり、結果、武力衝突することなく兄は引退に追い込まれます。
そして上杉謙信は、正式に長尾家の家督を継承したのでした。
つまり謙信は、自身の「武力」を背景に家督の座をつかんだことになります。
長尾家は由緒正しい家柄なので、戦国時代の下剋上を語る場面で謙信が登場することはほぼありませんが、彼もまた成り上がりを体現した一人と言えるかもしれませんね。
上田長尾氏にケンカを売られ
遺恨として残ったのは、上杉謙信の家督継承に反対していた上田長尾氏。
当然ながらアッサリ従いはしません。
当主の長尾房長・政景親子は謙信の所領安堵に反発し、人質の供出を拒否すると、上田近隣の領主である宇佐美定満の館へ放火もほのめかす挑発行動に出ました。
早い話、ケンカを売られたワケです。
謙信としても黙って見過ごすわけにはいきませんが、それでも「討伐したくないな…」と考えていたようで、最終的には政景らと交渉の上で講和を結びます。
当初は抵抗していた上田長尾氏も、正面きって謙信とは戦いたくなかったのでしょう。
一方、天文19年(1550年)には形式上の主君である上杉定実が死に、越後守護上杉氏は断絶しました。
主君が死んだことで実質的な越後国主の座を得た謙信も、形式上はまだ守護代の状態。
そこで自身の格式を高めるべく、室町幕府への接触を始めると、同年、家臣の神余親綱を通じて「白傘袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」の獲得に成功しました。
通常は守護しか使用が許されていないアイテムであり、「実質的にあなたは守護ですよ」という意味を持ちます。
もちろんタダとはいかず、謙信はその返礼品として太刀、さらには現代価値でざっくり300万円ほどの銭を送っています。
同時に謙信は、越前の朝倉氏・近江の六角氏にも接近し、「オレ、守護格になったんだぜ」ということを対外的にアピールしました。
とまぁ、この時期の謙信は国外にも関心を払っており、とりわけ注目したのが関東の情勢です。
先ほどから関東管領上杉氏との関わりに触れてきましたが、当時の関東管領・上杉憲政は危機的な状況を迎えていました。
足利氏の系譜にある古河公方と対立し、さらに山内上杉氏と扇谷上杉氏が分裂。
そうこうしているうちに後北条氏の拡大路線に押され、敗れた憲政は越後へ落ち延びてきました。
彼は謙信に「山を越えて関東を制してはくれまいか?」として【越山】を要求します。
そのろ京では、重大局面を迎えていました。
将軍・足利義輝が三好長慶によって都を追われ、近江で過ごすことを余儀なくされていたのです。
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