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【上杉謙信】
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信玄が死んだと思ったら信長との関係が悪化
元亀4年(1573年)、上杉勢に激震が走ります。
最大のライバルだった武田信玄が陣中で病を発症し、亡くなったのです。
武田家に伝わる伝説では「ワシの死は3年隠せ」と命じたとされますが、上杉謙信は家臣の報告によってその死をすぐに聞き及んだようです。
道は開けた――。
謙信の前途は一気に開けたといっても過言ではありません。
信長包囲網はこれにて崩壊。同盟相手である織田の足元が固まってくると、関東について「信玄がいなけりゃ氏政なんてザコ」と一蹴しています。
やがて信玄の死をハッキリと確信した謙信は越中へ攻め込み、苦戦しながらも徐々に勢力を広げていきます。
やはり北条氏政を痛い目に遭わせたかったのでしょう。越山にも乗り出しますが、利根川の増水と協力者の作戦ミスにより成果を上げることはできません。
しかも、関東出兵に際しては、協力要請を黙殺した信長に対して不信感が増大し、両者の関係は悪化してしまいます。
佐竹氏の救援をめぐっては佐竹義重と意見が折り合わなかったほか、武蔵国最後の拠点であった羽生城も失い、この年の越山は完全な失敗に終わってしまいました。
なお、その後天正4年(1576年)にも関東出兵していますが、謙信にとってはそれが最後の越山になりました。
問題は織田との関係です。
両国は悪化の一途をたどり、武田に対する意見の相違や、謙信による足利義昭への協力姿勢が決定打になり、実質的な手切れとなりました。
天正3年(1575年)には悲願であった越中を制覇し、続いて能登を手中に収めるべく七尾城を囲みます。
謙信は攻城戦に勝利しました。
しかし、最悪の関係になっていた織田軍に動きがあり、徐々に衝突の時間が近づいてきます。
織田軍は加賀へ入り、いよいよ合戦は避けられなくなりました。
そして両軍が激突!
そう【手取川の戦い】です。
謙信自らが出陣する――そんな知らせを受けた柴田勝家らが退却しようとしたところ、上杉軍が襲いかかり、戦いは一方的な展開になったとされます。
大勝に気をよくした謙信が
「織田軍って意外と弱いのなwこれなら義昭様の復権も余裕だわ」
と言い放ったという逸話も有名です。
能登も支配下に収めた謙信。
もはや行く手を阻む者は誰もいないという状況で、信玄が果たせなかった天下への野望が花開くかに思われました。
※手取川の戦いについては存在を裏付ける史料が少なく、実在を疑われることも
突然死で上杉家は真っ二つ
天正6年(1576年)の3月9日、その時は突然やってきました。
上杉謙信は春日山城内で倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。
享年49での死は、北陸を制覇しつつあるタイミングを考えると、いささか早すぎた最期といえましょう。
死因については、彼が大酒飲みだったため厠で転倒し、そのダメージと考えられてきました。
最近は「脳卒中」が疑われていますが、直接的な死因と言い切れるかどうかは不明です。
厠が誘発した謙信の死~高血圧で冬場のトイレは踏ん張りが危険だよ
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問題は、謙信が遺した「二人」の養子でしょう。
一人は越相同盟に際して、北条家から引き取った上杉景虎で、もう一人は長尾政景の子である上杉景勝。
突然死だったため、謙信が後継者をハッキリと示さず、それが二人の対立を決定的なものにしたと考えられています。
景勝の主張によると「死の間際に私を後継者に指名した」とのことですが、正当性を主張するための言葉とも思え、真相はよくわかっていません。
ともかく元々内乱の多かった越後家臣団は、真っ二つに割れてしまうのです。
この家督争いは【御館の乱】と呼ばれ、一年にも及びました。
ただし、この戦いに勝利した上杉景勝は、その後、徳川家康の天下でも潰されることなくギリギリで家を存続させ、武田や北条と異なり、上杉は大名として幕末を迎えることができました。
「軍神」と呼ばれるようになった謙信
最後に「軍神」と呼ばれる程だった上杉謙信の「武名」について、着目しておきたいと思います。
謙信の名は、生前からすでに他国にも轟いていました。
なんせ敵対し続けた信玄生前の言葉に「日本無双の名大将」という言葉があるほど。
※信玄に仕えた僧侶・円昌坊教雅が記す
しかし、天下を取るまでには至らず、彼の跡を継いだ上杉景勝も徳川家の軍門に下っています。
それからのことです。謙信が上杉家中で神格化され、現代の「軍神像」が作られていったのは。
歴史家の今福匡氏は、以下のように分析します。
江戸時代の上杉勢は、偉大なる先祖を担ぐことで「機会さえあれば、もう一度天下を相手の戦ができる」という気構えを持ち、石高を大幅に減らされ極貧に落とされた不遇な身を慰めていたのではないか。
武田信玄と北条氏康と同時に敵対し、織田信長(正確には配下の柴田勝家)を一蹴。
確かに、謙信のエピソードはずば抜けており、生き残った子孫や家臣たちにとっては誇らしいものだったでしょう。
加えて、謙信自身が毘沙門天と呼ばれる軍神を信仰していたことも大きいでしょう。
実は毘沙門天を仰ぐ戦国大名は他にもいましたが、「私は軍神の加護を受けており、悪を征伐する義の男である」ということを謙信自らが積極的に発信していました。
謙信の偉大な経歴を知った後世の人物が、そのセルフプロデュースに引っ張られるのは自然なことでしょう。
以上のように謙信は「軍神」「義の武将」というイメージで高く評価されてきました。
しかし、ここまで見てきた謙信の姿は、必ずしもその像とは一致しなかったのではないでしょうか?
なんせ謙信は、自分でも認めるほどの短気でした。北条氏政への執拗な態度などから見ても、感情が先行する人物だったことがご理解いただけるでしょう。
戦に関しても強いは強いけれど、常勝無敗ではありません。
むしろ手痛い敗北を喫して、苦しみながらもなんとか攻略していくというスタイルの戦い方が得意のように見えます。
軍神どころか人間臭い――。
当たり前ですが、上杉謙信だって神様ではなく一人の人間です。
今後は、そんな評価が進んでいってもよいのではないでしょうか。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
井上鋭夫『上杉謙信』(→amazon)
乃至政彦『上杉謙信の夢と野望』(→amazon)
石渡洋平『上杉謙信』(→amazon)
今福匡『上杉謙信「義の武将」の激情と苦悩』(→amazon)
WEB歴史街道「上杉謙信の敵中突破!関東の名城・唐沢山城」(→link)