戦国ファンなら誰しも一度は考えるであろうこのテーマ。
武田信玄と上杉謙信、いったい勝者はどちらなのか?
川中島で5度(諸説あり)もぶつかりながら、結局どちらの首もとったりとられたりしてないから、引き分けでいいんじゃない?

長野市八幡原史跡公園にある信玄と謙信の一騎討像
そう結論づけられると確かにそうかもしれないが、ここでは合戦以外での対決についても考慮してみたい。
まずは官位争いを見てみましょう
2人が争った北信濃――この土地は結局、武田信玄が制している。
ゆえに信玄の勝ち!
武田家ファンならそう答えるだろう。
しかし、江戸時代まで家を存続させているのは上杉家ではないか。
だから謙信様の勝ち!
上杉ファンや直江兼続ファンはそう答えるだろう。
では、例えば官位などで見たらいかがだろうか。
戦国時代は、室町幕府や朝廷の権威が失墜し、ゆえに国が乱れたとされる。
しかし、いくら下克上の世の中といえども大義名分というのは依然として強い影響力を持っていた。
ゆえに武士たちが様々な官名を手にしている。
その点、上杉謙信がゲットした関東管領はデカい。
なにせ関東を支配する役職であり、しかも、この役職には「専用の輿に乗れて、さらには赤い傘を使える」という、我々から見ればどうでもよい特権が与えられていた。
どうでもよくない!
そう嘆いたのは武田信玄である。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
我々にはサッパリ理解できない感覚だが、上杉謙信の赤い傘を許せなかった武田信玄は、嫉妬のあまり禁じ手を使い、仏教界から「大僧正」という格を買ってしまうのである。
関東管領より格上なのだから、首尾よく入手したときには笑いが止まらなかっただろう。
しかし、この横暴なやり方が、よもやのところで泣きを見ることに……。
もうコレ以上の位はないんですってば
江戸時代のことだ。
武田一門を名乗る幕府の重臣が朝廷にカネを払い、信玄の格を上げようとカネを用意した。
朝廷から「位」を買おうとしたのだ。
そこで問題となったのが、先ほど触れた「大僧正」である。
大僧正とは、仏教界ではトップ。高貴な世界で上に行き過ぎたため、もう俗世間でのランクアップは無理となってしまったのだ。
その影響だろうか。
明治時代に入って武将たちに位が与えられたとき、武田信玄は従三位をいただくかたわら、上杉謙信は従二位を賜ったのである。

上杉謙信/wikipediaより引用
上杉家は貴族扱いになっていたのも大きな要因だっただろう。
家を存続させないことが、こんなカタチで負けにつながるとは、あの世で信玄が勝頼を怒鳴りつけている姿が目に浮かぶ。
神社争いは謙信の圧倒的勝利
武田信玄ファンも泣きたいだろうが、もう一つ、謙信が後世に影響を与えた功績がある。
それは明治5年に建てられた上杉神社(山形県)と春日山神社(新潟県)である。

上杉謙信像(上杉神社)
いずれも謙信が祀られているところであり、上杉神社に関しては神社界では最高ランクである「別格官弊社」という地位まで入手してしまった。
生前の謙信も越後守護代(長尾家伝統の職)という地方の副知事クラスから一気に関東管領という関東連合総長という半グレのトップに上り詰めたわけだが、神様になってもたいした出世街道である。
対して信玄。
武田神社はあくまでローカルな位置づけだ。
んじゃ、今も謙信の方が人気あるの?と言ったらそうでもない気がする。
武田信玄に関わる大河ドラマや映画などは、上杉謙信よりも圧倒的に知名度が高い。
山本勘助、山県昌景、馬場信春、高坂弾正、真田幸綱(真田幸隆)など名だたる部下がいた信玄に対し、謙信の方はやはり地味だ。
本人が軍神だったため、部下の伝説が残りにくかったのも影響しているのだろうか。
信玄と謙信、お互いをどう思っていた?
長い目で見ると、謙信の「勝ち」のようだが、お互いのことはどう評価していたのか。
これが意外に難しい。昔の人は「感想文」というのを残さない。
少ない史料から「心情」を読み解いた一例が、在野の戦国研究者として知られる鈴木真哉氏だ。
『戦国武将・人気のウラ事情』(→amazon)でこの疑問について触れている。
1561年、謙信は大軍で北条氏康を囲んだが落城できず、引き揚げるときに逆に補給部隊を襲われてしまい、「(松隣夜話という史料に)じぶんが常々、甲斐の武田信玄におよばないと思うのは、こういうところだと言ったという」(122頁)
たしかに言ってそうだ。
ところが、この手の話は怪しいというのが歴史の常で、同史料では小田原攻めの年を間違えたり、呼び名の年代が違ったりと信憑性が低いのだそうだ。うーん、困ったが……ご安心を。
信玄だけじゃなく北条氏康のことも
『戦国武将・人気のウラ事情』にはこんな記述もある。
もう少し確かな史料としては、天正2年(1574年)春、木戸伊豆守らに宛てた書状(「謙信公御書」)がある。
謙信は、このとき関東に出兵し、利根川を舟で渡ろうとしたが、北条勢の攻撃を受けて失敗した。
家臣の佐藤筑前という者に、敵の攻撃を受けたらまずいのではないかと尋ねたところ、敵が攻撃してくる地形ではありませんと答えたので、決行したところ失敗したのである。
それで「佐藤ばかもの」と書中で罵っている。
そう言いながら、よくわからない地形では、武田信玄、北条氏康だって失敗しただろうから、自分の失敗も無理はないと弁明している。(123頁)
とまぁ、信玄のことはちゃんと評価していたのだ。
というか、北条氏康のことも?

北条氏康/wikipediaより引用
そうそう、東日本では北条氏康も重要かつ屈強な武将ですよね。
本当は、信玄・謙信のライバル関係の中に名前が出てこない氏康が一番かわいそうだったりして……。
ムカつくけど日本無双之名大将だと思います
さて、一方の信玄といえば。
死に際して息子の勝頼に「謙信は義の人だから頼りなさい」と言ったといわれているが、この有名な逸話も実は確実ではない。
結果的に、武田&上杉の同盟が成り立ったから、あとづけで創られた可能性も高い(ちと、さびしいが)。
信玄本人が謙信を評価した史料はなく、信頼性の高い史料として1576年(天正4年)に、甲斐の僧侶が越後の僧侶にあてた書状(「歴代古案」10月15日付け)に、信玄は謙信のことを【日本無双之名大将】とたびたび言っている。
つまり「おたくの大将もすごいね」との内容が記されているのだ。
「自分で文章を書くのは1通が限度で、2通は書けなかったのである」(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』129頁)と、信玄は筆無精だったので、史料には残らずとも、やっぱり「あいつすげー」とは言っていたと考えてよさそうだ。
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【参考】
乃至政彦『上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)』(→amazon)
鴨川達夫『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像 (岩波新書)』(→amazon)
鈴木眞哉『戦国武将・人気のウラ事情 (PHP新書)』(→amazon)
富永商太・川和二十六『戦国時代100の大ウソ』(→amazon)






