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源平・鎌倉・室町

鎌倉時代は実際どれだけ殺伐としていた?泰時が変えた無法の世界

鎌倉時代はどれだけ殺伐とした世界だったのか?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をご覧になり、そんな疑問を抱かれた方は少なくないでしょう。

上総広常は双六の最中に突如斬られてしまうし、梶原景時は皆に嫌われ鎌倉から追い出され、頼朝の弟らも次々に討たれて、源氏の血脈も途絶えてしまった。

いったい何なんだよ――そう嘆きたくなる世界ですが、中盤から最終回にかけ、北条義時が暗闇に染まる最中、一筋の光明は示されてきました。

息子の北条泰時です。

鎌倉幕府で第三代執権となるこの泰時は、古代中国の伝説的な君子「尭舜(ぎょうしゅん)」に喩えられるほどの名君であり、実際に御成敗式目を成立させるなどして、社会の安定に努めました。

彼は如何にして当時の日本に道理や法などを浸透させていったのか?

建久5年(1194年)2月2日は北条泰時が元服を迎えた日。

社会状況を鑑みながら、泰時の足跡を振り返ってみましょう。

 


坂東は無法地帯

まずはドラマの序盤から見て参りましょう。

北条義時の兄である北条宗時がまだ生きていた頃、平家の横暴に憤りを見せる場面がありました。

「あいつらは馬や女を奪う!」

これは平家だけが調子に乗った悪い連中というより、当時の坂東が無法地帯のような状態だったことも浮かんできます。

誰かから無理やり「女や馬を取ってはいけない」というルールがないのです。

そんな価値観が跋扈するなかで唯一の解決手段となるのは?

そう、暴力ですね。

象徴的なシーンは『鎌倉殿の13人』でも大きく取り上げられました。

曽我事件】――いわゆる【曽我兄弟の仇討】です。

日本三大敵討ちにも数えられるこの事件、そもそもは伊東祐親と工藤祐経の間で起きた所領争いがキッカケでした。

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政治力のある伊東祐親に出し抜かれ、土地を奪われ、妻と離縁させられた工藤祐経。

裁判に訴えることもできず、腹に据えかねて祐親の殺害を試みたところ失敗し、そばにいた祐親の長男・河津祐泰を討ち取って終わりました。

現代社会であれば、この時点で工藤祐経は逮捕される場面です。

ところが当時の坂東ではそうならない。

一方、我慢ならないのが父の祐泰を殺された息子たち。

祐泰の遺児である曽我五郎と十郎は、源頼朝が主催したイベント「富士の巻き狩り」で工藤祐経を殺し、父の仇討ちという悲願を遂げました。

殺られたから殺り返す――いくら仇討ちという美談にしようとも、暴力による解決に他なりません。

元を辿れば、伊東祐親が祐経の所領を騙し取ったのが事の発端です。

その解決法が他に無かったという状況もありました。

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さらに言いますと、暴力での解決に頼るのは武士だけではありません。

大きな寺社もまた同様。

彼らも自らの訴えを通すため僧兵という軍事力を持ち、暴力と神威を傘にきた「強訴」によって、相手が天皇ですら自分たちの要求を押しつけました。

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これに対し、実力行使に出たのが平清盛

五男の平重衡に命じて、奈良の東大寺や興福寺などを焼き尽くす【南都焼討】を行ったのです。

暴力には、それを上回る暴力で対抗――しかも僧侶・僧兵を相手にした力任せの解決法でした。

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祟りの効果

【南都焼討】という暴力的解決を行った清盛が程なくして亡くなると、当時の人々は祟りであると見なしました。

『さすが中世、バカバカしいw』と思われるでしょうか。

我々から見ればあまりに原始的な考え方も、当時であれば一定の暴力抑制にはなります。

人を殺せば祟られる!

あるいは

神木を切れば、山神が怒り、山体は崩壊するだろう!

といったように、殺人や環境破壊を防ぐ役割もありました。

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しかし、これには同時に抜け道もありました。

またしても宗教。

「人を殺してから怨霊対策をすればよろしい」という邪な言い訳が用意されたのです。

世界に目を向けると「カトリックの免罪符」はこうしたまやかしの象徴であり、マルティン・ルターの批判によって宗教改革へと繋がりました。

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日本の仏教にも、同様の誤ちがあったことが『鎌倉殿の13人』でも描かれています。

誰かを呪い殺すための「呪詛」を簡単に引き受けてしまう文覚です。

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ただし、こうした「呪詛」の効果は、受け取る人次第とも言えます。

『鎌倉殿の13人』では阿野全成が今にも処刑される――というそのとき、雷鳴が鳴り響き、豪雨が降りしきりました。

これには坂東武者たちも怯えてしまい、刀を持つ手が震えてしまいます。日蓮は同じような状況で助かり、「龍の口の法難」と呼ばれています。

しかし八田知家は構わず処刑を実行しました。

時代がくだるにつれ、知家のような合理的な判断が、徐々に迷信を駆逐していったのです。

 


ようやく訴訟が始まるが

我慢できないから殺す。

土地を奪われたから合戦で取り返す。

とかく暴力に偏りがちだった坂東でも、鎌倉政権が立ち上がると、徐々にその解決手段が変わっていくことが『鎌倉殿の13人』でも描かれました。

訴訟です。

大江広元が重々しく開始を宣言し、ドヤドヤと御家人たちの訴えを聞く。そんな場面がドラマ中盤でしばしば描かれました。

暴力沙汰になる前に双方の言い分を聞いて裁定を下す――。

京都からきた「文士」たちが、幕府にそんな制度をもたらしたのです。

しかし、劇中ではうまくいきません。

例えば美味しそうな魚を土産に貰った北条時政が、ホクホク顔になって平気で贔屓をしようとするシーンが描かれました。

史実も同様です。

中世は、見た目や声音が重視される時代であり、見た目が美しい人は行いが正しく、天から守られていると考えられました。

「イケメンは正義」

現代にはそんなスラングがありますが、その考えが訴訟においても通じてしまうのが中世でした。

この話を笑い飛ばせる現代人は、それだけ進歩しているのです。

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訴訟においては教養の差も影響します。

うまく文書を作成できない。他人に説明できない。そうした者はどうしたって不利になります。

不器用で口下手であると、訴訟そのものがストレスになってしまう。

逆に、訴訟の中身が無茶苦茶でも、堂々とハキハキした口調で話せば、無理も通ってしまう。

そんな歪んだ状況も生まれてしまいました。

さらに訴訟の導入は“梶原景時への妬み”にも繋がった側面があります。

頭脳明晰な梶原景時は訴訟を扱うことが多かったため、

「おのれ、景時め。裁判で俺が不利になるよう、鎌倉殿に吹き込んだんじゃねえのか……?」

と怒る御家人が少なからずいたのです。

裁判が公明正大で、かつ判例もしっかり世の中に示され、誰が取り扱っても判例や道理に基づいて決断が下される――そうであれば景時弾劾の署名も多数集まることも無かったかもしれません。

制度がシッカリしていないから、人へ不満が向いてしまう。

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そんな鎌倉時代の訴訟の場において、印象的な言動をする人物がいました。

北条泰時です。

泰時は、相手の訴えが理にかなっていると、感動して涙すら流すことがあったのです。

彼は常に「公平公正」「理が通るかどうか」を重視していました。

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