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源平・鎌倉・室町

鎌倉時代は実際どれだけ殺伐としていた?泰時が変えた無法の世界

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史実の鎌倉時代はどれだけ殺伐としていた?
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中国経由の仏教だから

源頼朝の弟で実衣と結婚した阿野全成

彼の初登場シーンを覚えていらっしゃるでしょうか。

伊豆の寺で政子や実衣の窮地に陥ったところへ現れ

「臨兵闘者皆陣烈在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」

という“九字”を唱え、風を呼ぼうとしていましたが、なぜ仏僧がそんなことをするのか、疑問に思いませんでした?

あれは全成の性格というより、当時の仏教が混沌としていたことが反映されています。

仏教はインドが発祥の地で、日本へは中国を経由して入ってきました。その過程で“道教”の要素が混ざってきます。実は九字も、風を呼ぶ術も、道教由来なのです。

三国志』作品の【赤壁の戦い】では、諸葛亮が風を呼ぶシーンがおなじみですが、あれをご想像されると良いかもしれません。

あの描写はフィクションで付け加えられたものであり、道教由来の動作で描かれています。

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ともかく鎌倉時代の仏教はまだまだ混沌としていました。

受験などでもお馴染みの【鎌倉仏教】はドラマが舞台の時代には存在感は無く、主人公の北条義時が死んでから興隆してゆきます。

つまり義時の子や孫の時代であり、そんな変わりゆく仏教に救いを見出したのが、他ならぬ北条泰時です。

 


御成敗式目を支えた道理

京都が戦場となり、朝廷側が敗北した【承久の乱】。

その後、同エリアでは敗者を探索する“残党狩り”が行われ、六波羅探題の初代長官となった北条泰時の前に、僧・明恵(みょうえ)が連行されてきました。

泰時は、事前に名声を聞き知っていたので、上座に据えると、明恵はこのように語りました。

「殺生禁断の栂尾山(とがのおやま)では、獣たちも隠れて命を救おうとするもの。

そこに入った武者を匿うのは慈悲というもの。

それが政道の妨げになるというのならば、さあ、この愚僧の首を刎ねなさい」

その覚悟と慈悲の心に感銘を受けた泰時。

捕縛した無礼と暴勇を恥じると、質問を投げかけます。

「どうすれば生死(しょうじ・仏教用語)から免れられるのでしょう? 政治を私ではなく理で行えば、救われますか?」

真剣そのものの泰時に、明恵は答えます。

「理に違えば人は滅びる。しかし、理のままに政(まつりごと)を行おうと、罪から逃れられぬこともある。生死の助けになるとは思えませぬ。しかし、生死を免れたいのであれば、私心なく仏法を信じることです。そして正しい政を行えば、よいこともありましょう」

これが運命の出会いとなりました。

泰時は、栂尾山にいる明恵の元へ通い、語り合い、結論が導き出されてゆきます。

祟りが降りかからないように読経するのは、己が救われたいという欲求が心の底にある。

それよりも理に適った正しい政治を行うことで、自身のみならず、多くの人を救う。

泰時の心の中に芽生えたのは「道理」。

すなわち正しい道をゆき、理に適うこと――それが泰時がまとめた【御成敗式目】の通底にあるとされます。

仏の教えも、泰時の中に根付いてゆきました。

為政者が宗教にのめり込むことの是非はあり、信心深ければよいとも限りません。

例えば、民衆の暮らしを無視して豪華な宗教施設を建てたり、政務そっちのけで修行に打ち込んでも周囲や世間は困ります。

その点泰時は、為政者と宗教の関係においても見本を示したのです。

教えを守る清廉潔白な僧侶には、最大限の敬意を払い、教えを聞く。

一方、武力を傘にきて、無茶を言い出す僧侶には厳しい態度で臨みました。

 


人を救うには「教育」も大事だ

大河ドラマ『麒麟がくる』では、主人公の明智光秀が北条泰時と同じ悩みを抱えていました。

すなわち……乱世では人が救われない! 仁政の世に現れる麒麟が来ないではないか!

そう悩み続けたのですが、泰時と違い、光秀が幸せだったのは、そのことを言語化して表現できたことでしょう。

明智光秀は漢籍の知識を駆使して理論展開します。

ドラマでも『論語』はじめさまざまな言葉を引用していました。

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一方『鎌倉殿の13人』ではどうか?

劇中で鎌倉政権が力をつけていく毎に、坂東にも教養が伝播してゆきました。

北条政子は、義母であるりく(牧の方)から御台所の教養として漢籍を大量に渡され、泰時はまだ金剛を名乗っていた幼少期から『貞観政要』を読む場面がありました。

貞観政要
『光る君へ』で一条天皇も愛読の『貞観政要』は泰時も家康も参考にした政治指南書

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漢籍を読む風習が泰時には身についていたんですね。

また『貞観政要』は政子が愛読していたこともあり、息子の源頼家にも読むよう勧めていたし、他ならぬ父の源頼朝はドラマの中で「忠義」を重視すると語るシーンがありました。

奥州合戦において、奥州藤原氏の藤原泰衡が、郎党の河田次郎に裏切られた様子を見て、そう語ったのです。

もしも「忠義」の心が武士に浸透すれば、裏切りは恥ずかしいことだとして自身を抑制するようになります。

何かと暴力的な御家人には教養と倫理が必要である――頼朝はそう理解していたのでしょう。

『鎌倉殿の13人』の世界には、まだ教育機関がありません。

教養は、あくまで個人の範囲内で身につけるものだったため、共通の認識はなかなか通じない。

関東の高等教育機関として有名な足利学校(栃木県足利市)は、泰時の後の時代にできたと考えられています。

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