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【史実の鎌倉時代はどれだけ殺伐としていた?】
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何より人を救うのは「法」だ
仏教を学び「道理」を得て、教養も身につける――。
そうはいっても世の中を変えるにはまだ足りません。
では北条泰時が出した答えは何か?
「法」です。
元仁元年(1224年)、泰時は父のあとを継いで執権となりました。
ただし、この就任については一悶着ありました。
義時の継室であり、泰時にとっては義母となる伊賀の方(『鎌倉殿の13人』では“のえ”)とその兄たちが、彼女の実子である北条政村を執権にしようと目論んだのです。
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伯母である北条政子の一喝により、執権は泰時に決まりましたが、少なからず苦い思いは抱いたことでしょう。
誰を執権にするか――事前にルールを決めておかないから余計な苦労を背負うことになる。下手をすれば流血沙汰となる。
人生経験を通して泰時はそのことをよく理解していたことでしょう。
執権となった泰時は、朝になると明法道の目安を見ることを日課としました。
明法道(みょうぼうどう)とは、大学寮の一学科であり、対象とするのは律令の研究。目安とは条文のことですので、つまり泰時は、朝から法律の条文を学んでいたのです。
なぜ彼は、そこまで法を重視したか?
その答えは、弟の北条重時に宛てた書状でわかります。
訴訟を受けた裁判を公平に行うには、ルールが必要だ。
しかし、成文法は律令しかない。
そうはいっても武士は律令の知識がない。
律令は武士の実態に即しているわけでもない。
ゆえに律令に基づいた裁判は行われていない。
そんな曖昧な状況を変えるためにも、武士のための法律を作ろう――。
それが泰時の答え。
『律令』は、唐から学び、7世紀から8世紀にかけて制定されました。
当時から既に400~500年が経過していますので、社会の実態にそぐわず形骸化が進んでいます。
そもそも坂東の存在が念頭にあったかどうか、それすら不明なものです。
ゆえに坂東は基準が明確ではない。
先例とか、道徳心とか、良識とか、慣例とか、そういった曖昧なものに頼らざるを得ませんでした。
泰時はそんな原始的な裁定を変えようとしたのです。
「京都人にとっては、ものを知らない野蛮人どもが、なんとか屁理屈をかき集めたな、と笑われるかもしれないけど……」
弟・重時宛の書状で、このように心情を吐露している泰時。
結果、御成敗式目は見事に広まってゆきます。写しが日本各地に配布され、浸透していったのです。
一体それまでの坂東は、どれだけ混沌としていたのでしょう。
・律令は形骸化が進んでいて機能していない
・律令は武士を想定していない
・何が良いのか悪いのか? 坂東武士たちは自分達の曖昧な基準で定める
・裁判をするにしても基準がない
まさしく無法――それがどのような結果を引き起こすか?
序盤の北条義時は、幾度も無惨な殺戮の場に立ち会いました。
彼を信じていた者たちが討たれていく様を前に、暗い顔で沈み、無理に自分を納得させるしかない姿が描かれていました。
中盤からは泰時が同じような惨劇の場を目撃します。
しかし彼は父とは異なり、泣き、嘆き、父に「間違っている!」と声をあげ続けた。
確かに『鎌倉殿の13人』は陰惨な大河ドラマです。理解し難いと思えるほどひどい展開が進んでいく。
それに対し、泰時が視聴者の声を代弁するかのように反論し続ける。
人間は高尚ではないからこそ
かつて歴史の研究には、理想が反映されました。
人類が堕落する前は、きっと高潔で素晴らしい世界があった――いわゆる“神話”の世界が広がっていた。
しかし歴史学の発展に伴い、こうした見解は修正されてゆきます。
人類は、何も高尚な存在などではない。
石器時代の人骨は、頭蓋骨の左側に殴られた跡があることが多く、かなり古い時代から、人類が暴力的な解決を用いていたことがわかる。
アルプス山脈から見つかったミイラ“アイスマン”には、他殺の痕跡が残されていた。
『聖書』には残酷な処刑や神の罰が頻出。
騎士道物語を分析すると、騎士たちはしょっちゅう敵対者の頭蓋骨を叩き割り、美しい貴婦人をさらっては性的暴行をしていた。
つまり人類は、時代が降るにつれ、暴力を忌避するようになったのであり、過去の人類が暴力的だと感じるとすれば、それは誰かがより良い世界に変えてくれた証拠でもあります。
『鎌倉殿の13人』をご覧になられて『いくらなんでも残酷すぎる』と感じるならば、それこそが人類進歩の証。
「こんな世の中はおかしい!」
北条泰時がそう思ったからこそ、彼は学び、信じ、法を作り上げた。
我々は、その偉大な一歩の恩恵に今も与っているのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
上横手雅敬『人物叢書 北条泰時』(→amazon)
石井進『日本思想大系21 中世政治社会思想上』(→amazon)
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(→amazon)
他