賀茂川の水
双六の賽
山法師
是(これ)ぞ朕が心に従わぬ者
とは、『平家物語』に出てくる白河法皇の言葉ですが、

白河天皇/wikipediaより引用
これ、妙な違和感がありません?
賀茂川(鴨川)の水が氾濫したり、サイコロの目が操作できない――ってのは確かにその通り。
しかし「山法師」とはいったい何なのか?
山とは比叡山。
法師とは僧侶のこと。
つまりは「比叡山の僧兵」を指し、武力を要する宗教勢ほど恐ろしい者はいませんでした。
しかも、延暦寺だけでなく、他にも興福寺や東大寺など、京都や奈良の大寺院では数多の僧兵を抱えていて、自分たちの要求を押し通すため武力行為に出ることもあったのです。
例えば天永4年(1113年)閏3月20日は興福寺による【永久の強訴】が勃発し、彼らの訴えが通されています。
大寺院が抱える武力の僧兵――彼らはどんな存在だったのか?
院政を推し進め、強い権力を握った白河法皇ですら意に沿わぬとは何様なのか?
源平合戦では弁慶に代表される、僧兵の歴史を振り返ってみましょう。
僧兵は何時どうして生まれた?
僧兵――その起源はハッキリとはしていません。
仏教徒が集団となり、寺社を形成し自衛する上で、武装集団も自然と発生した。
そんな風に考えられていて、実は「僧兵」という呼び方は江戸時代以降に総称とされたものです。
かつては統一した呼び方すら無く、
・薙刀を持ち
・頭巾を被り
・下駄を履いた
という典型的な姿は後世のイメージとお考えください。
ではなぜ自衛する必要があったのか?
というと、仏教が伝来し、大寺院が建立され、仏像や宝物が貯蔵され、そうした貴重品を守るために仏僧が武装。
かくして僧兵は生まれたのでしょう。

絵・小久ヒロ
比叡山の場合は「誰が天台座主(天台宗最高位)となるか?」という権力闘争も影響しているとされます。
仏僧であろうと文武両道でなければ勝てない。
そんな事情があり、延暦寺中高の祖として名高い第18代天台座主・良源が僧兵を創設したという伝説もあります。
仏門に入ったもののオツムの出来がよろしくなく、仏の教えを学ぶことができず、力が有り余っている者を武装集団にしておく。
そうして荘園を狙う悪党どもを退治させれば、仏法を守ることができる、とか。
仏教を守るためには、やむをえず弓矢を持つしかなかった、とか。
仏教を学んでも暴力的で危険な者はいるから、指導しながら組織化した方がまだよい、とか。
他にも様々な要因が挙げられますが、いずれにせよ名目上は仏法を守るため僧兵が組織された。
当時はそれだけ殺伐とした時代だったのでしょう。
ふくれあがる集団、闘争、そして強訴
寺社の宝物を守るため武装する。
あるいは力が余っている僧侶が発散のために組織化する。
僧兵は、かくして膨れあがってゆきます。
いきおい寺同士の勢力抗争にも繋がり、数は力だ、と言わんばかりに延暦寺には三千の僧兵が常駐するようになりました。
もはや危険な軍隊です。
そして彼らは、巨大な武力を背景に訴えを起こしました。
強訴(ごうそ)です。
寺の僧兵および神社の神人が、仏や神の教えを掲げ、朝廷や貴族相手に要求を押しつける。
平安時代中期には武装して邸宅まで押し寄せて破壊活動を行うようになり、シャレにならない事態へ陥ってゆきました。
武力だけでなく神仏の威を借るだけにタチが悪い。
結果、平安末期の11世紀後半から、鎌倉幕府成立の12世紀末に至るまでの院政時代に、僧兵の活動は最も盛んになっていました。
寺社仏閣の焼き討ちが頻発した背景にも、こうした僧兵の台頭があったのです。
あるいは日本一有名な僧兵といえば、武蔵坊弁慶でしょう。
彼がこの時代のシンボル的な存在であることは理にかなっているんですね。

五条橋の義経と弁慶(歌川国芳作)/wikipediaより引用
僧兵を抱える寺社には発言力があり、財務的基盤もあり、強力な武力もある。
これはさすがに危険だ……と敵認定して、強硬手段で抑え込む!という動きも武士の間で出てきます。
例えば平家凋落の遠因ともなった【南都焼討】もそうでしょう。
そして源平時代辺りを頂点に、僧兵の勢力は衰えていきます。
それはなぜか?
変わりゆく僧兵
時代は中世、荘園制度が崩れ、各地で民衆が力を持ち、その中から国衆と呼ばれる在地武士団が台頭し始めました。
こうした動きと反比例するように僧兵は衰退します。
なぜか?
南北朝末期となると、強訴に代わり、民衆による一揆が起こるようにもなりました。
一向宗による一向一揆と、僧兵による強訴は似ているようで異なります。
強訴:寺社勢力の権威と宗教性を背景に、自集団の権威を守るべく武装し訴える
一向一揆:宗教の教えのもとに集い、民衆の生活向上(徳政や年貢減免)を目的として武装し訴える
権威を守るためではなく、そもそも民の暮らしを守ることが仏法ではなかったか? そんな意識の変化があり、僧兵はむしろ権威とみなされるようになったのです。
寺社の勢力下にあった武装集団から大名となった、大和国・筒井氏(筒井順慶など)のような例もあります。
権威とみなされたからには、時代の改革を掲げる下剋上サイドからすれば、腐敗の温床にも映りました。

筒井順慶/wikipediaより引用
信長や秀吉や家康はどうした?
戦国時代も末期へ向かうころ、織田 信長が台頭しました。
信長は領土を広げる過程で、近江と美濃にあった延暦寺領を没収。
延暦寺は、信長と敵対する大名の浅井・朝倉と手を組み、対抗に出ました。

織田 信長/wikipediaより引用
もはや僧兵集団は、信長にとっては討つべき敵でしかありません。
織田軍に敗れた勢力の残党が比叡山に逃げ込む事態も起こりました。
かくして元亀2年(1571年)、比叡山は信長の命を受けた明智 光秀により焼かれたのです。
光秀ら家臣が諌めても、信長は止めません。
もはやただの宗教を笠にきた腐敗した権威ではないか!
信長の目から見ればそうなり、比叡山のみならず、石山本願寺の一向宗にも厳しい態度で臨みました。
ここで強調したいのは、信長の残虐性ではありません。
僧兵を擁した寺社も権力争いの最中に参加したからには、避けようがなかったという時代の流れです。
信長が本能寺の変で斃れたあと、その権力は豊臣秀吉が受け継ぎました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉の天下統一の過程において、天正13年(1585年)、根来寺が殲滅され、日本史から僧兵勢力は消え去りました。
秀吉のあと、天下人となった徳川家康の横には、僧侶である崇伝や天海が侍りました。
しかし彼らが提供するものはあくまで学識であり、武力ではありません。
僧兵の歴史は、かくして江戸時代には終わりました。
そして武装した僧侶を指す「僧兵」という呼び方も、江戸時代に生まれたのでした。
ミステリアスで実に日本らしい集団
殺生を禁じることが仏の教えなのに、なぜ僧侶が武装し、一大勢力となったのか?
僧兵は自衛手段として発生し、力を持ち、歴史を動かすようになりました。
聖職者が武装集団となった例はなかなか珍しく、日本史ならではの集団といえます。
中国には功夫を使いこなすことで名高い少林寺があります。
あれも隋末の乱世に武装したことが起源とされています。
といっても特殊だからこそ名高いのであり、中国各地に武装集団がいる寺があったわけではありません。
なかなかミステリアスで実に日本らしい集団、それが僧兵です。
その代表例である武蔵坊弁慶は国民的な人気人物となりました。
現代にも僧兵をモチーフとしたキャラクターとして、『鬼滅の刃』の岩柱・悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)がいます。
-

『鬼滅の刃』岩柱・悲鳴嶼行冥を徹底分析|その像は古典的ヒーローを踏襲
続きを見る
新しいようで、実は、フィクションでおなじみの存在だったんですね。
僧兵には、個性的な脇役キャラとして、今後も歴史作品を盛り上げ続けて欲しいものです。
あわせて読みたい関連記事
-

武蔵坊弁慶は史実の記録がほぼゼロなのに有名人|実際何をした?
続きを見る
-

遊び方もハンパじゃない後白河法皇|血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる
続きを見る
-

南都焼討を実行した平重衡|なぜ清盛は東大寺や興福寺を攻めたのか
続きを見る
-

興福寺・延暦寺・本願寺はなぜ武力を有していた? 中世における大寺院の存在感
続きを見る
-

一向一揆|戦国大名を苦しめた10の事例 ワルいのは宗教か権力者か
続きを見る
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
-

信長の比叡山焼き討ち事件|数千人もの老若男女を“虐殺大炎上”は盛り過ぎ?
続きを見る
-

金地院崇伝の生涯|家康の信頼を得て江戸時代の基礎を構築した手腕とは?
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
渡辺守順『僧兵盛衰記』(→amazon)
五味文彦『殺生と信仰――武士を探る』(→amazon)
他









