秀吉・家康に認められ大名へ昇格した鍋島直茂 なぜ「化け猫騒動」が伝わっているのか

日本史上の人物、特に戦国時代あたりまでの人でよく出てくるのが「乳兄弟」という間柄の人です。
昔は身分の高い人は母親が直接育てず、乳母が育てるものだったので、その乳母の子供は兄弟も同然としていたんですね。源氏物語の藤原惟光(フィクションだけど)や、織田信長の乳兄弟・池田恒興などが有名です。

また、母親が何らかの事情で離婚・再婚した場合、最初の夫との子供と、二人目の夫との子供は義兄弟とされることがありました。
ときに実の兄弟よりも仲が良かったり、何かと支えあう関係になる彼らですが、中には特殊な経過を辿った人もいます。天文七年(1538年)3月13日に誕生した鍋島直茂です。

鍋島直茂

鍋島直茂さん/Wikipediaより引用

 

主君で義兄弟の龍造寺隆信に当初は頼られていた

この直茂という人は、生涯を通じてややこしい人間関係に悩んだ感があります。
まず、幼い頃に主家である龍造寺家兼(隆信のひいじいちゃん)の命令で別の家に養子にいったのですが、養子先と主家が敵対関係になったため戻されました。このときのいざこざで死人が出ているので、巻き添えを食わなくてよかったのかもしれませんが。

次に、主君である龍造寺隆信の母親が直茂のお父さんに再嫁したため、主君と義理の兄弟になりました。直茂の生母が隆信のお父さんと兄妹(姉弟説もアリ)だったので、元々従兄弟でもあったのですけどね。
隆信については以前取り上げています(過去記事:九州三傑の一人・龍造寺隆信! 大友家の領地を削り取り、島津家にフルボッコ 【その日、歴史が動いた】)が、一度国を追われていたりして信用できる人が少なかったので、直茂の存在はかなり頼りにしていたようです。

大友家との戦いでは直茂の意見が採用されて見事勝利を収めることができましたし、龍造寺家の足元である肥前の他家を支配下に入れたりと、活躍ぶりも期待に見合った、あるいはそれ以上のものでした。

主君で義兄弟の龍造寺隆信/Wikipediaより引用

主君で義兄弟の龍造寺隆信/Wikipediaより引用

 

主君に疎まれたまま沖田畷の戦いへ

が、隆信がその猜疑心の強さゆえに家中を粛清しまくるようになると、直茂への態度も冷たくなりました。「酒やアバンチュール(死語)はお控えください」(意訳)と言っても聞き入れられず、むしろ煙たがられたといいます。
良薬口に苦し、ならぬ忠告耳に痛しというところでしょうか。

その状態でついに龍造寺家vs島津家のハイライト、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)を迎えます。このときも直茂は隆信のそばにはいられなかったようで、それが結果的に彼の命を救いました。

龍造寺軍の多くが”釣り野伏せ”とその後の追撃で木っ端微塵になる中、辛くも逃げ帰ることができた直茂は、主の首の受け取りを拒否するという「よく、考えるとそれまずくね?」な手段で島津家への反抗心を明確に示します。

が、それがかえって島津家には「骨のある奴よ」と見られたらしく、一時島津の傘下に入ったときにある程度の立場を保つことができました。隆信涙目。

 

秀吉も気を遣う(?)ほど関係が危うくなりつつ…

とはいえ、元が一大名だったのに、他家の傘下に収まったままでは納得できませんよね。隆信の子・政家が能力的にも健康的にも頼りなかったため、直茂が音頭を取って龍造寺家の方針を固めていくことになります。

そして「関白、九州来るってよ」(超訳)という話を聞きつけた彼は、島津へは恭順したフリをしながら、秀吉へも連絡を取り始めました。この辺もいかにも戦国武将らしいですね。
その腹黒さ……もとい先見の明が秀吉に気に入られ、主家とは別に領地を与えられた上、関白お墨付きで龍造寺家を取り仕切るように命じられます。えーっと、主君って何だっけ。

一応、秀吉も気を使ってか、先に政家へ、その後に直茂と息子・勝茂に豊臣姓をあげていますが、家中としてはその程度で心が穏やかにはなりません。
「アイツ下克上したいんだよ、関白まで利用してずるいなあ」という見方をする人もいました。中には「政家様を毒殺しようとしている!」とまで言う輩もおり、直茂は起請文(神様へ宛てて「これこれを誓います。破ったら罰を当ててください」と書いた文書。エクストリーム「嘘ついたら針千本」みたいな感じ)まで出して噂を否定しています。それ何てスルー検定?

朝鮮出兵の時には直茂を信頼した将兵も多かったそうですが、まさか「異国に主君を行かせる訳にはいかないけど、直茂ならいいや」なんて意味ではないと……思いたいですね。

 

江戸幕府も鍋島家を重用すると、驚くべき行動に!

その後、秀吉が亡くなって関が原の戦い前夜では、東軍の勝利を予測して家康への誼を通じるべくいろいろ動きました。
仲の悪かった長男・勝茂は当初西軍についてしまったのですが、直茂に「今からでも家康につけ」と言われてその通りにし、九州の西軍を叩いたことで何とかお咎めなしになっています。えがったえがった。

そして関が原が終わって江戸幕府ができると、龍造寺家との関係に終止符が打たれます。
幕府が「もう龍造寺より鍋島のほうが信頼されてるんだし、正式に譲ったことにしなよ」(超訳)という方針にしたこと、隆信の弟たちも「それでいいです」と言ったことから穏便に済むかに見えましたが、政家の子・高房は納得しませんでした。
そりゃ「お前、無能だから家臣に領地を渡すように」になんて言われても納得できないですよね。前々から兆候があったにしても。

が、このとき高房が取った手段はいただけません。
この人は直茂の養女を妻にしていたのですけども、その女性を殺した上で自分も死のうとしたのです。要するに無理心中ですね。
そこまでするほど領地を譲るのがイヤだったということですが、当然のことながら直茂はムッとしました。このときの「おうらみ状」という手紙が有名です。
「私は龍造寺家の皆さんに誠意を尽くしてきたつもりなのですが、これはいったい誰に対するあてつけなのですか。話し合えばいいことじゃないですか。これじゃお家が本当に断絶してしまいますよ。今からでも遅くないので、直接お話をするつもりがあるならどうぞ」(超略)という内容です。
が、この手紙を読むか読まないかのうちに高房は再び自害し、今度こそ亡くなってしまいました。あーあ。

直茂もこれでは強行策に出られないと感じたか、亡くなるまで自分で肥前藩主の座につくことはありませんでした。そのため、肥前藩の初代藩主は勝茂になっています。「現役の戦国武将だった人が初代藩主ではない」という例はいくつかありますが、こういう遠慮でそうなったのは珍しいですね。

直茂の息子にして肥前藩初代藩主・鍋島勝茂/Wikipediaより引用

直茂の息子にして肥前藩初代藩主・鍋島勝茂/Wikipediaより引用

 

直茂や勝成を祟った「鍋島化け猫騒動」

しかし世間はその遠慮をなかなか認めなかったらしく、直茂の死因について一騒動あったと言われています。「鍋島化け猫騒動」と呼ばれるものです。
簡単にいえば、「高房の飼っていた猫が飼い主の恨みを晴らすため化け猫になり、直茂や勝茂に祟った」というものです。

直茂が亡くなったのは81歳という長寿でのことでしたが、耳に腫瘍ができ、激痛に苦しみながら亡くなったということから「高房の祟りじゃないか」と考えられたのでしょう。
一度、人心を失った家が領地だけ取り戻したところで、家臣はともかく領民が懐いたかどうかはアヤシイ気がしますけども。

秀吉は直茂のことを「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評していたそうです。大気とは空気のことではなく心の広さのことで、高房とのやり取りを見ると「確かにそうかも?」と思えます。

養女を嫁がせたあたりで話し合っておけば、もうちょっと穏便に済んだかもしれませんしね。
人付き合いって難しい。

歌川国芳画『梅初春五十三駅』/Wikipediaより引用

歌川国芳画『梅初春五十三駅』/Wikipediaより引用

 

長月 七紀・記

参考:鍋島直茂/Wikipedia

 

 


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