島津家久

絵・小久ヒロ

島津家

島津家久の生涯|次々に大軍を撃ち破った薩摩最強の軍神 その戦績とは?

2025/07/06

戦国期の九州を破竹の勢いで制した島津家。

飛躍の中心にいたのは島津貴久の息子たち、

・島津義久

・島津義弘

・島津歳久

・島津家久

四兄弟であったことはつとに有名ですが、その中でも天才的な合戦術で数多の大軍を撃ち破ったのは誰か、ご存知でしょうか。

【島津の退き口】で武勇轟く島津義弘――ではありません。

末弟の島津家久です。

家久の武勲は、戦歴おそろしい四兄弟の中でもアタマ一つ抜けています。

島津家躍進のカギとなった3つの大戦、

・耳川の戦い

・沖田畷の戦い

・戸次川の戦い

すべてで大活躍を果たしており、人気漫画『センゴク』でも、人知を超えた軍神のごとく「鬼かスサノヲか」と描かれるほど異色の存在でした(→amazon)。

要は、漫画家にとっても「まるでマンガ」としか言いようのない戦歴なんですね。

では一体どんな活躍だったのか?

島津家久の生涯を追ってみましょう。

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末弟・島津家久は継室の生まれに非ず

島津家久は天文16年(1547年)、島津家当主・島津貴久の四男として生まれました。

島津貴久/Wikipediaより引用

前述のとおり3人の偉大な兄たちである義久・義弘・歳久と並んで「島津四兄弟」と評され、薩摩を盛り立てたというのは有名ですね。

その中でも家久は、戦歴が際立っているだけでなく、他の三兄弟と決定的な違いがありました。

母親です。

三兄弟の母親は入来院重聡(いりきいんしげさと)という人物の娘で、父・貴久の継室にあたる女性でした。

継室とは「正妻と何らかの形で別れた後に迎える後妻」という立場であり、身分的な格としては正室に並びます。

さらに、父の入来院重聡も四兄弟の祖父・島津忠良や父の島津貴久に仕え続けた重臣であり、家内における身分も高いものでした。

一方、家久の母親は?

本田親康という人物の娘であり、そもそも親康の身分が非常に低いものでした。

確かに本田氏は薩摩周辺の有力国人の一人ではありましたが、鎌倉以来の伝統を持つ入来院氏と比べれば明らかに格落ちです。

その証拠に、家久の母と貴久の間には正式な婚姻関係が結ばれていませんでした。

一言でいえば身分の低い愛人の子。

当時の血統社会では致命的なハンディであります。

そんな家久は、初陣から後の活躍を彷彿させる戦功を挙げました。

 


祖父・忠良「軍法戦術に妙を得たり」

家久の初陣は永禄4年(1561年)。

大隅国・肝付氏との間に勃発した【廻城の戦い(めぐりじょうのたたかい)】でした。

このとき家久はまだ15歳の若さでしたが、一説には偶然鉢合わせした敵の武将を討ちとるという大功を挙げたと伝わっています。

さらに永禄10年(1567年)からは、敵対していた菱刈氏が本拠とする大口城の攻略を担当。

後年、彼の代名詞となる「寡兵で多数の敵を誘き寄せ、伏兵で討ち取る」という戦術が垣間見える戦いぶりを披露し、ここでも度々戦功を挙げました。

他の三兄弟も初陣(天文23年=1554年)から戦場を駆け回り、度々戦功を挙げておりましたが、遅れてきた家久も負けてはいなかったんですね。

史実かどうかはともかく、家久の才能が幼少期から評価されていたという逸話もいくつか存在します。

有名なところでは、祖父・忠良が若き日の四兄弟を評した言葉があり、家久は

「軍法戦術に妙を得たり」

とその能力を認められています。

島津忠良/wikipediaより引用

また、身分的に劣っていることを自覚していた家久は、昼夜を問わず武芸に励んで努力を重ね、他の三兄弟に並ぶに至ったというエピソードもあります。

逆境をバネに飛躍を果たしたのでしょう。

こうして身分的なハンデを覆した家久の能力は貴久らにも認められ、かつての重臣である入来院氏を含んだ渋谷氏一族という敵対国衆を打倒した際に、彼らから奪った隅城を与えられています。

同時に拝領した串木野という地に入り、この地の領主となりました。

その後、天正3年(1575年)に5か月ほど上洛しているのですが、その際のエピソードや行動が非常に興味深いものでした。

 

光秀や信長に接した上洛旅が微笑ましい

家久は天正3年(1575年)、初の上京を果たしました。

島津氏の三州平定に伴う神仏加護を伊勢神宮・愛宕山より得るためです。

この旅については『中書家久公御上京日記』という文書に詳細な記載が残されており、史料的にもエピソード的にも見どころの多いものです。

まず、上洛の途中で八女(現在の福岡県八女市)のあたりに到着した際、難癖をつけてきた関守を部下に命じて殴打させると、室津(現在の兵庫県たつの市)では口うるさい水夫をまたもや殴打しました。

この行動を見た家久は、諫めるでも叱るでもなく「素晴らしい振舞いだ!」と部下を絶賛。

さすがは薩摩人といったところでしょうか……。

些細なトラブルを経ながら都へ入った家久は、当時名を馳せていた連歌師の里村紹巴と交流し、また彼のツテで公家や商人とも盛んに交流しました。

里村紹巴/wikipediaより引用

それだけではありません。

当時、同じく上洛を果たしていた織田信長の軍勢や城をいくつか見学し、その様子を日記にしたためていたようです。

このとき目撃した信長の軍勢が豪勢であったことを記録すると同時に、お茶目なことも記しています。

「信長、馬上で居眠りしてたぜ(笑)」

当時、信長は42歳頃でありながら、相変わらず戦場を駆け回っていて、よほど疲れていたのでしょう。

ジワリ……と家久の文才を感じてしまいますが、実は教養面に関しては疎かったようで、明智光秀と面会した際に茶を勧められるとこう答えています。

「申し訳ない。茶道の礼儀は存じ上げぬゆえ、白湯にしていただけないだろうか」

教養溢れる人物として知られる光秀からは連歌会にも誘われますが、これも辞退しています。

こうして日記に自分の教養不足を書き残してしまう家久が非常に身近に感じられますし、大都会・京都への旅で新鮮に驚く様は微笑ましい限りです。

しかし、家久とて薩摩・島津の代表として出向いているのですから、遊びだけではなかったことでしょう。

光秀と交流していることから、真の狙いは織田信長との関係作り、中央の情報収集であったと考えるほうが自然ですし、そのために逐一記録をつけていたのも合点がいきます。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用

こうしてわずかの期間ながら京都を満喫した家久。

薩摩へ帰還すると、彼の伝説的な活躍が開幕するのです。

 

耳川の戦い

国元へ戻った家久は天正4年(1576年)、伊東氏の支配下だった日向国高原城攻めに参加。

そこでも城の占領に大きく貢献し、力を見せつけました。

天正6年(1578年)には、一つ目の大殊勲【耳川の戦い】を迎えます。

没落した伊東氏の救援に大軍で押し寄せてきた大友宗麟の軍勢を、高城という要衝に籠った家久がよく耐え抜き、最終的には【釣り野伏せ】による戦術で大逆転に貢献するのです。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用

詳細は以下の記事に譲りますが、

耳川の戦い|島津軍が大友軍を「釣り野伏せ」で完敗させた九州の激戦
耳川の戦い1578年|島津軍が釣り野伏せで大友宗麟に完勝!九州覇者へと躍り出る

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耳川の戦いによって勢力の衰退していく大友家は九州の覇権争いから脱落し、九州統一の行方は島津氏と、急成長しつつあった龍造寺氏に絞られます。

家久としては、大友を日向国から追放できた勲功により、同国の佐土原を領地として与えられました。

以降は、同じく島津家家臣の上井覚兼(うわいかっけん)と共に日向地方の統治者という性格を帯びるようになっていきます。

天正9年(1581年)には肥後の相良氏支配下にあった水俣城を襲撃。

以降もたびたび肥後の地へ進軍し、相良氏を降伏させることに成功しました。

こうして島津の領土拡張に多大なる貢献を果たしている最中、最大の敵である龍造寺氏の攻勢に耐えかねた肥前の有馬晴信から、救援要請の報が届きました。

敵・龍造寺の軍勢2万5千~5万とも(史料によってまちまち)。

対する島津勢は、援軍を出せても最大3千程度。

有馬の軍勢と合わせて、わずか5千余の寡兵で万単位の軍勢に挑まなければならない状況でした。

 


沖田畷の戦い

一報を受けた島津家では、当然ながら慎重論が上がります。

しかし、軍議を制した当主の島津義久が派兵を決定。

その総大将に任じられたのが家久でした。

開戦直前に有馬氏の日野江城に到着した家久は、敗戦を覚悟していた有馬勢から歓待を受けたと伝わっています。

もちろん、不利な状況に変わりはありません。

圧倒的な兵力差を前に普通の野戦を仕掛けては、まず勝ち目もないでしょう。

そこで家久は、あえて積極果敢な防衛策を主張し、決戦の地を手狭な湿地帯である【沖田畷】に定めました。

島津・有馬連合軍はこの地の防備を徹底的に固め、同時に兵力を三手に分散。

中央の兵員を手薄にすることで、油断した敵軍を誘い込み左右から挟撃する得意の【釣り野伏せ】を画策したのです。

家久たちの待ち構える沖田畷にやってきた龍造寺軍は、圧倒的な兵力差による早期決着を目論み進撃を開始しました。

が、やはり大将の龍造寺隆信にいくらかの慢心があったのでしょう。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用

家久の目論見通り、まんまと沖田畷に誘い込まれます。

狭い道に追い込まれ、身動きが取れず、次々に打ち倒されていく龍造寺軍。

不利を察した隆信は慌てて軍を動かそうとしましたが、そこは狭くぬかるんだ沼地であり、大軍だったことが災いして、進退窮まってしまいます。

そこで有効な打開策を見いだせず混乱している龍造寺軍を尻目に、家久は兵を分離させ、敵本陣を襲撃!

もはや奇襲に対応できる余裕がなかった龍造寺軍は翻弄され、最終的に大将の隆信以下多数の武将を失うという大敗を喫してしまったのです。

この大勝利は単純な大逆転劇としての価値だけでなく、龍造寺サイドの国衆が一斉に薩摩への服属を表明するなど、数えきれないほどの副次的効果をもたらしました。

まさしく歴史的勝利であり、この【沖田畷の戦い】以降、九州の趨勢は一気に島津になびくのです。

こうして「軍略家・島津家久」の名は現代まで語り継がれることになりました。

 

九州統一を目前にして秀吉の介入

龍造寺を打倒した島津は、九州に残る大友氏を攻め落とすため、豊後への本格的な侵攻を目論みます。

天正13年(1585年)、家久はまず大友氏と協力関係にあった日向国の三田井氏を制圧し、同時に豊後国内への調略活動に従事しました。

「おぜん立ては完了しました!」とばかりに次男の島津義弘へ進言すると、家中でも意見が受け入れられ、本格的な大友攻略がスタートします。

島津義弘/wikipediaより引用

反大友勢力との兼ね合いから日向方面を経由しての豊後入りを主張する家久に対し、島津本陣からは北九州方面からの攻撃を指示され、家久は命に従って進軍を果たします。

そのタイミングで九州へ上陸しきたのが、大友救済を表明していた豊臣秀吉の先発隊でした。

漫画『センゴク』の主人公・仙石秀久を筆頭に、土佐の英雄・長宗我部元親と、その嫡男・長宗我部信親などが参加した豊臣四国連合軍です。

『センゴク』の劇中で

「(家久は)鬼かスサノヲか」

と描かれていたのはまさにこのとき。

強引な戦術で進軍しようとする豊臣四国連合軍を迎え撃った家久は、完膚無きまでに仙石らを蹴散らし、九州に島津あり――という矜持を痛烈にアピールするのです。

これぞ3つ目の大殊勲【戸次川の戦い】であり、仙石秀久にとっては世紀に残る大失態となりました。

仙石秀久は責任を取らされ領地没収、四国覇者の元親は目をかけていた嫡男・信親を失うなど悲惨な結果に終わってしまうのです。

仙石秀久

仙石秀久/wikipediaより引用

しかし、九州覇者の意地もここまででした。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の意を受けた九州征伐軍が始動。

西国の有力大名が終結した本隊が九州に上陸し、圧倒的な大軍(動員可能な最大兵数は30万とも)を繰り出して九州北部から南部へ向かって制圧していきます。

日向に撤退した後、島津家にとっての有力家臣をエサにつり出される形で【根白坂の戦い】が勃発しました。

不利な状況にもかかわらず奮戦を重ねますが、戦線を支えきれず、ついには敗走へ追い込まれます。

こうして島津家の九州制覇の夢が破れると、いの一番に豊臣の軍門に下ったのは家久でした。

彼は単独で豊臣秀長と講和を結ぶと、佐土原の地を安堵されることになります。

 


降伏直後に急死 様々な憶測が流れる

秀長に降伏した島津家久は、以後、彼の家臣として振舞うつもりであったようです。

その証拠に日向へと向かう秀長に同行している形跡がありますが、不幸にその直後、佐土原へと帰還させられています。

そして原因不明のまま天正15年(1587年)、この地で亡くなってしまいました。

享年41。

死因が特定されていないことや、そのタイミングから、家久の死をめぐっては様々な説が流れます。

今なお研究者レベルでも見方が分かれており、『国史大辞典』では毒殺説を支持する一方、研究書によっては「急死」と断定を避けているものもあれば、「病死」と記しているものもあります。

死因が特定されていない以上確固たる答えは出ないのですが、個人的には自然な病死説を支持したいと思います。

理由は以下の通り。

・早期に降伏した「親豊臣派」の家久を豊臣方が暗殺する必要性はない

・同様の理由で豊臣方と通じている家久を暗殺することは島津側にとっても意義が少ない

・家久の病気を示唆する書状が見つかっている

そもそも「暗殺説」は、どんな場面でも仮説が立てられます。

病死と書かれていても「後に書き換えられたのだ」と主張することは可能であり、明確な根拠がなければ提唱しにくいという側面もあります。

 

「家久がいれば関ヶ原も変わった?」

最後に、こんなIF説に注目してみたいと思います。

「家久がいれば関ヶ原の行方も変わった」

享年41という早すぎる死を惜しんだ主張でありますが、結論から申しますと家久の生存は「東軍有利」に傾けたのではないでしょうか。

関ヶ原の戦い

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

秀長に仕えていた家臣らは、その病死後、多くが徳川家康に召し抱えられ、有力家臣だった藤堂高虎や小堀政一など出世を遂げている大名が少なくありません。

加えて、息子である島津豊久は、父の和睦を快く思っていなかったがため義弘に仕え、西軍として関ヶ原に参戦したという説も存在します。

家久急死による家督継承がなければ島津義弘・島津豊久の西軍参加も(ひいては島津の退き口)も無かったかもしれません。

いずれにせよ、軍神のごとく戦場を駆け回り、島津家を躍進させ、信長の居眠りをお茶目に指摘する――。

島津家久の功績は今なお我々の心を踊らせてくれるものであります。

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【参考文献】
『国史大辞典』
三木靖『薩摩島津氏』(→amazon
日本史史料研究会・新名一仁『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』(→amazon
栄村顕久『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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