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【島津家久】
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降伏直後に急死 様々な憶測が流れる
秀長に降伏した家久は、以後、彼の家臣として振舞うつもりであったようです。
その証拠に日向へと向かう秀長に同行している形跡がありますが、不幸にその直後、佐土原へと帰還させられています。
そして原因不明のまま天正15年(1587年)、この地で亡くなってしまいました。
享年41。
死因が特定されていないことや、そのタイミングから、家久の死をめぐっては様々な説が流れます。
今なお研究者レベルでも見方が分かれており、『国史大辞典』では毒殺説を支持する一方、研究書によっては「急死」と断定を避けているものもあれば、「病死」と記しているものもあります。
死因が特定されていない以上確固たる答えは出ないのですが、個人的には自然な病死説を支持したいと思います。
理由は以下の通り。
・早期に降伏した「親豊臣派」の家久を豊臣方が暗殺する必要性はない
・同様の理由で豊臣方と通じている家久を暗殺することは島津側にとっても意義が少ない
・家久の病気を示唆する書状が見つかっている
そもそも「暗殺説」は、どんな場面でも仮説が立てられます。
病死と書かれていても「後に書き換えられたのだ」と主張することは可能であり、明確な根拠がなければ提唱しにくいという側面もあります。
「家久がいれば関ヶ原も変わった?」
最後に、こんなIF説に注目してみたいと思います。
「家久がいれば関ヶ原の行方も変わった」
享年41という早すぎる死を惜しんだ主張でありますが、結論から申しますと家久の生存は「東軍有利」に傾けたのではないでしょうか。
秀長に仕えていた家臣らは、その病死後、多くが徳川家康に召し抱えられ、有力家臣だった藤堂高虎や小堀政一など出世を遂げている大名が少なくありません。
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加えて、息子である島津豊久は、父の和睦を快く思っていなかったがため義弘に仕え、西軍として関ヶ原に参戦したという説も存在しており、家久急死による家督継承がなければ島津義弘・島津豊久の西軍参加も(ひいては島津の退き口)も無かったかもしれません。
いずれにせよ、軍神のごとく戦場を駆け回り、島津家を躍進させ、信長の居眠りをお茶目に指摘する――。
島津家久の功績は今なお我々の心を踊らせてくれるものであります。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
三木靖『薩摩島津氏』(→amazon)
日本史史料研究会・新名一仁『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』(→amazon)
栄村顕久『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)