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【島津家久】
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耳川の戦い
国元へ戻った家久は天正4年(1576年)、伊東氏の支配下だった日向国高原城攻めに参加。
そこでも城の占領に大きく貢献し、力を見せつけました。
天正6年(1578年)には、一つ目の大殊勲【耳川の戦い】を迎えます。
没落した伊東氏の救援に大軍で押し寄せてきた大友宗麟の軍勢を、高城という要衝に籠った家久がよく耐え抜き、最終的には【釣り野伏せ】による戦術で大逆転に貢献するのです。
詳細は以下の記事に譲りますが、
耳川の戦いで島津軍が九州覇者へ「釣り野伏せ」で大友軍を完膚なきまで叩き潰す
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耳川の戦いによって勢力の衰退していく大友家は九州の覇権争いから脱落し、九州統一の行方は島津氏と、急成長しつつあった龍造寺氏に絞られます。
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家久としては、大友を日向国から追放できた勲功により、同国の佐土原を領地として与えられました。
以降は、同じく島津家家臣の上井覚兼(うわいかっけん)と共に日向地方の統治者という性格を帯びるようになっていきます。
天正9年(1581年)には肥後の相良氏支配下にあった水俣城を襲撃。
以降もたびたび肥後の地へ進軍し、相良氏を降伏させることに成功しました。
こうして島津の領土拡張に多大なる貢献を果たしている最中、最大の敵である龍造寺氏の攻勢に耐えかねた肥前の有馬晴信から、救援要請の報が届きました。
敵・龍造寺の軍勢2万5千~5万とも(史料によってまちまち)。
対する島津勢は、援軍を出せても最大3千程度。有馬の軍勢と合わせて、わずか5千余の寡兵で万単位の軍勢に挑まなければならない状況でした。
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沖田畷の戦い
一報を受けた島津家では、当然ながら慎重論が上がります。
しかし、軍議を制した当主の島津義久が派兵を決定。その総大将に任じられたのが家久でした。
開戦直前に有馬氏の日野江城に到着した家久は、敗戦を覚悟していた有馬勢から歓待を受けたと伝わっています。
もちろん、不利な状況に変わりはありません。
圧倒的な兵力差を前に普通の野戦を仕掛けては、まず勝ち目もないでしょう。
そこで家久は、あえて積極果敢な防衛策を主張し、決戦の地を手狭な湿地帯である【沖田畷】に定めました。
島津・有馬連合軍はこの地の防備を徹底的に固め、同時に兵力を三手に分散。中央の兵員を手薄にすることで、油断した敵軍を誘い込み左右から挟撃する得意の【釣り野伏せ】を画策したのです。
家久たちの待ち構える沖田畷にやってきた龍造寺軍は、圧倒的な兵力差による早期決着を目論み進撃を開始しました。
が、やはり大将の龍造寺隆信にいくらかの慢心があったのでしょう。家久の目論見通り、まんまと沖田畷に誘い込まれます。
狭い道に追い込まれ、身動きが取れず、次々に打ち倒されていく龍造寺軍。
不利を察した隆信は慌てて軍を動かそうとしましたが、そこは狭くぬかるんだ沼地であり、大軍だったことが災いして、進退窮まってしまいます。
そこで有効な打開策を見いだせず混乱している龍造寺軍を尻目に、家久は兵を分離させ、敵本陣を襲撃!
もはや奇襲に対応できる余裕がなかった龍造寺軍は翻弄され、最終的に大将の隆信以下多数の武将を失うという大敗を喫してしまったのです。
この大勝利は単純な大逆転劇としての価値だけでなく、龍造寺サイドの国衆が一斉に薩摩への服属を表明するなど、数えきれないほどの副次的効果をもたらしました。
まさしく歴史的勝利であり、この【沖田畷の戦い】以降、九州の趨勢は一気に島津になびくのです。
こうして「軍略家・島津家久」の名は現代まで語り継がれることになりました。
九州統一を目前にして秀吉の介入
龍造寺を打倒した島津は、九州に残る大友氏を攻め落とすため、豊後への本格的な侵攻を目論みます。
天正13年(1585年)、家久はまず大友氏と協力関係にあった日向国の三田井氏を制圧し、同時に豊後国内への調略活動に従事しました。
「おぜん立ては完了しました!」とばかりに次男の島津義弘へ進言すると、家中でも意見が受け入れられ、本格的な大友攻略がスタートします。
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反大友勢力との兼ね合いから日向方面を経由しての豊後入りを主張する家久に対し、島津本陣からは北九州方面からの攻撃を指示され、家久は命に従って進軍を果たします。
そのタイミングで九州へ上陸しきたのが、大友救済を表明していた豊臣秀吉の先発隊でした。
漫画『センゴク』の主人公・仙石秀久を筆頭に、土佐の英雄・長宗我部元親と、その嫡男・長宗我部信親などが参加した豊臣四国連合軍です。
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『センゴク』の劇中で
「(家久は)鬼かスサノヲか」
と描かれていたのはまさにこのとき。
強引な戦術で進軍しようとする豊臣四国連合軍を迎え撃った家久は、完膚無きまでに仙石らを蹴散らし、九州に島津あり――という矜持を痛烈にアピールするのです。
これぞ3つ目の大殊勲【戸次川の戦い】であり、仙石秀久にとっては世紀に残る大失態となりました。
仙石秀久は責任を取らされ領地没収、四国覇者の元親は目をかけていた嫡男・信親を失うなど悲惨な結果に終わってしまうのです。
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しかし、九州覇者の意地もここまででした。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の意を受けた九州征伐軍が始動。
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西国の有力大名が終結した本隊が九州に上陸し、圧倒的な大軍(動員可能な最大兵数は30万とも)を繰り出して九州北部から南部へ向かって制圧していきます。
日向に撤退した後、島津家にとっての有力家臣をエサにつり出される形で【根白坂の戦い】が勃発しました。
不利な状況にもかかわらず奮戦を重ねますが、戦線を支えきれず、ついには敗走へ追い込まれます。
こうして島津家の九州制覇の夢が破れると、いの一番に豊臣の軍門に下ったのは家久でした。
彼は単独で豊臣秀長と講和を結ぶと、佐土原の地を安堵されることになります。
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