気性の激しい戦国九州をほぼ制圧し、西の大藩・薩摩の礎を作り上げた俊英たち――そんなイメージがあるかと思いますが、兄弟が四人も揃えばどうしたって知名度には濃淡が生じるもので。
誤解を恐れずに言えば、三男・島津歳久が『ちょっと地味だよね……』という存在ではないでしょうか。
たしかに歳久は、他の三兄弟に比べて派手なエピソードが少なく、現代人の目には触れにくいかもしれません。
しかし、だからといって実力に劣るわけではなく、薩摩や大隅、日向の統一においては大活躍を果たしていて、むしろその知名度が不自然に抑えられているようにすら感じます。
実際、この歳久、地元薩摩では
「戦の神」
「安産の神」
として絶大な人気を誇っているのです。
ではなぜ全国的には他の三兄弟と比べてイマイチなのか?
「安産の神」とは?
本稿では、天正20年(1592年)7月18日に亡くなった島津歳久の生涯を振り返ると共に、現代に伝わる功績・知名度のナゾについても併せて考察してみたいと思います。
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祖父に知略を讃えられていた島津歳久
天文6年(1537年)、島津歳久は島津家当主・島津貴久の三男として誕生しました。
母は兄二人と同じく入来院重聡の娘で、彼らとは純然たる兄弟ということになります。
ただし、四男・島津家久は母が彼らと異なり、四兄弟は異母兄弟を含んでいるといえるでしょう。
つまり歳久は、家久に比べると身分的には高いはずですが、後世の評価では四兄弟の中で最も地味。
理由はいくつか考えられます。
とまぁ現代において注目度がどうしても低くなってしまう要因が揃っているのです。
しかし、彼らの祖父・島津忠良が四兄弟を評したとされる言葉は決して軽くはありません。
「利害を察する知略で歳久に並ぶものはいない」
そう語られており、家中における大切なバランサーを担っていた可能性があります。
おじいちゃんだから評価が甘いんでしょ?
と思われるかもしれませんが、この祖父が他の三兄弟を評した内容が、現代の評価と似通っていて、そう大げさな話でもなさそうです。
少なくとも薩摩における歳久が評価の高い人物であったことは間違いなさそうです。
兄二人と共に初陣を勝利で飾る
歳久が初陣を飾ったのは天文23年(1554年)のこと。
兄二人(島津義久・島津義弘)と同じタイミングで、無事に緒戦を勝利で飾り、戦国武将として上々のスタートを切ります。
実はこの頃、父の島津貴久は、九州統一どころか領国・薩摩ですら統一をなし得ておらず、彼らはまず国内の平定から進めなければなりませんでした。
そのため前半生の大半は、薩摩および隣国の国衆との戦いに備える日々を送ります。
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初陣の翌年、歳久は早速、蒲生氏の蒲生城攻めに参加しました。
首尾よく戦功も挙げましたが、合戦そのものは敵の偽計に翻弄され、歳久も負傷するほどの記録が残されています。
そこで島津軍は弘治2年(1556年)、まず蒲生氏と協力関係にあった祁答院(けどういん)氏を攻略。
両者の連携を封じると、弘治3年(1557年)には蒲生城を陥落させます。
島津軍といえば、とにかく足軽までもが屈強なイメージですが、それは敵勢力の国衆も同じであり、彼らとの争いは激化しました。
薩摩平定
国衆との戦いが熾烈を極めていく永禄5年(1562年)のこと。
島津から分家した北郷氏(ほんごうし)と、肥後の相良氏(さがらし)は、北原氏の再興を目論みます。
北原氏は日向国の伊東氏によって攻められ没落していたのですが、その再興に反対したのは他でもない北原氏の旧臣・北原兼正。
この事態を受けた四兄弟長兄の島津義久は、歳久を兼正攻めの総大将に任じます。
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歳久はすぐさま兼正の居城である横川城を攻め落とし、その実力をあらためて認識されたのでしょう。永禄6年(1563年)頃からは薩摩・吉田地方の統治を命じられ、吉田城の城主となります。
永禄9年(1568年)には、島津に粘り強く抵抗を続けていた祁答院氏が当主の殺害により急速に弱体化。
最大の懸念事項だった祁答院地方の平定を果たします。
こうなると島津の勢いは止まりません。
歳久は永禄11年(1568年)、かねてより敵対関係だった菱刈氏の曾木城を攻め、開城させる戦功を挙げます。
追い詰められた菱刈氏はその翌年、相良氏と共に大口城に立てこもって籠城戦を仕掛けますが、島津の攻勢を防ぎきれず降伏。
ついに島津家は、宿願であった薩摩を平定させるのです。
一般的に島津の活躍は、主に大友氏(耳川の戦い)や龍造寺氏(沖田畷の戦い)、あるいは仙石秀久・長宗我部元親(戸次川の戦い)など豊臣氏との戦いなどが注目されがちです。
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しかし、その基礎となった“国内統一”までの経緯を振り返ると、歳久が果たした役割が小さくなかったことがご理解いただけるでしょう。
以降、彼の評価は不当に低くなっている可能性があります。
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