愛姫(陽徳院)伊達政宗の正室

伊達政宗の正室・愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用

伊達家

政宗の正妻・愛姫(陽徳院)が背負った名門の重責~坂上田村麻呂の家

1653年2月21日(承応二年1月24日)は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)が亡くなった日です。

あまりの可愛らしさから、東北の方言で「可愛い」をさす「めんこい姫」と呼ばれていたのが、いつしか縮まって「めごひめ」となったとか。

「よしひめ」と読む説もありますが、どんだけ可愛かったんでしょうね。

ところがどっこい、彼女には可愛いだけじゃない逸話がたくさんあります。

 


娘の嫁ぎ先で運命は激変

愛姫の実家は、現在の福島県三春の大名・田村家でした。

東北と「田村」でピンと来た方もいらっしゃるかもしれません。

史上二人目の征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫といわれている家柄です(最初の征夷大将軍は紀古佐美・きのこさみ)。

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子孫というのが本当かどうかはタイムマシンを使ってDNA鑑定でもしないとわかりませんが、この誇りが田村家と愛姫を大きく支えることになります。

とはいえ、誇りだけでも家がもたないのが戦国時代。

愛姫の父・田村清顕(きよあき)は子供に恵まれず、愛姫の嫁ぎ先一つで家の命運が決まってしまう窮地に陥っていました。

その苦悩たるや凡人には計り知れず、清顕の嘆きぶりは、大河ドラマ『独眼竜政宗』の原作である山岡荘八『伊達政宗』(→amazon)で詳しく描かれています。

あくまでフィクションではありますが、ものすごく簡略化していうと「何でお前はもうちょっと悪賢く生まれてきてくれなかったの(`;ω;´)」みたいな感じです。

 


政宗祖父の妹が愛姫の祖母って……

清顕苦悩の末に、愛姫の嫁ぎ先に選ばれたのが、伊達家の伊達政宗でした。

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伊達家は奥州探題を務める東北随一の名門で、政宗の曽祖父・伊達稙宗のときにも勢力を拡大。

あっちこっちと血縁を結んだり、息子(伊達晴宗)と揉めたりで結果的にトラブルを拡散させ、東北の戦乱に拍車をかけるような展開になっていました。

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なんせ稙宗の娘が田村隆顕(愛姫の祖父)に嫁いでいるため、そもそも政宗と愛姫も血縁があったりします。

政宗のお祖父ちゃん・伊達晴宗の妹が、愛姫の祖母にあたるんですね。

一応、簡単に系図を示しておきますと……。

◆伊達家の流れ

伊達稙宗

伊達晴宗→妹が田村隆顕と結婚

伊達輝宗

伊達政宗

◆田村家の流れ

田村隆顕→晴宗妹と結婚

田村清顕

愛姫→伊達政宗と結婚

とにかく当時の東北は婚姻関係が複雑過ぎるためこの辺で話を先へ進めますと……。

 


政宗の長男を産んだのは側室だった

愛姫は11歳のとき、伊達家へ嫁ぐことになりました。

状況が状況ですので「二人目の男児は田村家へ養子に出す」という条件付き。

伊達家としては長男をもらえればそれでいいので、特に異議はなかったようです。

しかし、嫁いだ後もしばし苦難は続きました。

ついてきた愛姫の乳母が殺されたり、政宗との間には15年間も子供に恵まれなかったり……。

後者については、政宗が戦続きであまり城にいなかったから、というのもあるのですが、その割に側室のほうが先に長男を懐妊していたりするので、愛姫としては相当悩んだことでしょう。

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伊達家の跡継ぎは他の女性の子供でも問題ありませんが、田村清顕には愛姫の他に子が無く、万が一のときには御家断絶のピンチになります。

実際、天正14年(1586年)に田村清顕はそのまま亡くなってしまい、結局、清明の甥・田村宗顕(むねあき)が中継ぎ当主として当主となっていました。

最終的に田村宗顕は政宗の傘下に組み込まれて御家存続を果たしますが、それまでにはお家騒動のゴタゴタがあり、家中が伊達派と相馬派に二分されたので、愛姫としては居ても立っても居られなかったことでしょう。

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