こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【愛姫】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
秀吉を警戒して「懐剣」を常に携えていた
しかも戦乱の情勢が次々に変わり、豊臣秀吉によって「大名の妻子は京に住むこと」と決められたため、愛姫も京都へ移り住むことになりました。
ただ引っ越しただけではなく、他の大名の妻たちとそつなくお付き合いをこなし、政宗が国許にいる時には手紙で上方の情勢を知らせていたとか。
また、秀吉の女好きや天下の動きを警戒して「いざというときは匕首(あいくち)で首を切りますので、私のことは気にせず去就をお決めください」(意訳)という、気丈な手紙を書いたこともありました。
可愛いだけではない、愛姫の誇りと聡明さがうかがえます。
他の大名の妻にも「秀吉の前に出るときには武器を忍ばせていた」という話がいくつかありますので、当時の常識だったのかもしれません。
まぁ、秀吉の側室たちの出自を見れば、そうせざるをえませんけども、実際は、秀吉当人やその妻・ねね(北政所)には気に入られて厚遇されていたようです。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?
続きを見る
由緒ある愛姫の出自も気に入られていたのかもしれません。
老齢の域に入りかけた41才で出産
念願かなって、最初に子供を授かったのは26歳のこと。当時の初産としてはかなり遅めです。
このとき生まれたのが、後に松平忠輝の正室となる五郎八姫でした。
「いろはひめ」と読み、家康に嫌われていた松平忠輝に嫁いだだけに、将軍家とは思えぬ苦労をさせられています。
愛姫はその後、数年おきに懐妊し、三男一女に恵まれました。
残念ながら、幼いうちに亡くなった子もいますが、それは当時の状況では仕方のないことでもあります。
江戸期以前の乳幼児死亡率は異常~将軍大名家でも大勢の子が亡くなる理由は?
続きを見る
政宗の次に伊達家を継ぐ嫡男は、愛姫から生まれた伊達忠宗でした。
伊達忠宗(政宗の嫡男)はデキる息子だった?仙台藩二代目の知られざる功績
続きを見る
そして一番下の子供を授かったとき、愛姫はなんと41歳。
現代でも高齢出産に入りますが、そもそも当時の感覚では老人に入りかけの年齢です。
田村家の養子に入って家を継ぐはずだった彼女の次男以下の二人が夭折してしまったため、その願望は叶えることができません。
最後に、政宗死後のエピソードに注目してみますと……。
夫の月命日に旅立ちたい
政宗は亡くなる直前、愛姫の見舞いや世話を拒んだとされます。
「こんなみっともない姿を、正室に見せてたまるか!」という気概からのことで、最期まで愛姫と会わぬまま政宗は息を引き取りました。
しかし、愛姫はそれを恨みはしなかったと思われます。
理由は二つ。
後に「夫のありのままの姿を残したい」と、片目の政宗像を作らせていること。
そして、政宗の死から17年経った愛姫自身の死に際には「せめて、夫の月命日(24日)に旅立ちたい」と命を永らえさせ、見事その通りになったことです。
承応2年(1653年)1月24日のこと。享年86。
最後に会えなかったことを恨んでいたとしたら、17年も経ってなお「夫の月命日に」なんて考えないですよね。
夫が亡くなるまでだけではなく、自分がこの世を去るその時まで、彼女は政宗のことを本当に愛していたのでしょう。
また、田村家に対する思いも残っていたようで、自身の息子を養子入りさせることは叶いませんでしたが、息子の二代目藩主・伊達忠宗にその任を引き継ぎます。
忠宗は三男を田村宗良として田村家の再興を果たすのでした。
あわせて読みたい関連記事
伊達政宗は天下を狙っていた?派手な逸話を検証しながら70年の生涯まとめ!
続きを見る
実は二番目の征夷大将軍・坂上田村麻呂にはどんな実績がある?最初の将軍は誰?
続きを見る
政宗の曾祖父・伊達稙宗がカオス!天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ
続きを見る
政宗長男・伊達秀宗の切なくてイイ話~もう一つの伊達家が四国に誕生した理由
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)は女癖の悪い夫をどう操作していた?
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち~70人の数奇な人生~』(→amazon)
愛姫/Wikipedia
福島県三春町(→link)
瑞巌寺(→link)