伊達稙宗と天文の乱

伊達稙宗/wikipediaより引用

伊達家

政宗の曾祖父・伊達稙宗がカオス!天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ

「手段と目的が入れ替わる」

他者からすればマヌケに見えるこの現象――世間ではままあることですが、戦国時代などにやってしまうとシャレにならない事態に陥ることが多々あります。

その好例が永禄8年(1565年)6月19日に亡くなられた伊達稙宗(たねむね)でしょう。

あの独眼竜の曽祖父にして、戦国大名のシンボルともされる分国法の『塵芥集(じんかいしゅう)』を制定。

なんて聞くと、いかにもインテリジェンスな武将を想像してしまいますが、この稙宗さん、東北地方に大混乱をもたらした【天文の乱】当事者であり、なかなかのカオスだったりします。

いったい何がどうしてそうなったのか?

本稿では伊達稙宗の生涯と天文の乱を見て参りましょう。

 


伊達稙宗 26歳で家督を継ぎ最上義定を破る

伊達稙宗は、長享二年(1488年)に伊達氏十三代・尚宗(ひさむね)の嫡子として生まれました。

初名は高宗といったのですが、後述の理由で改名しています。

若い頃からやる気満々だったらしく、26歳で家督を継いだその年のうちに羽州探題・最上義定を破り、妹を義定の正室に送り込んで同地域を支配しようとしました。

最上家からすれば、ぶん殴ってきたやつの妹を押し付けられた形になるわけです。踏んだり蹴ったり。

その辺が関係しているのかどうかわかりませんが、義定と稙宗の妹との間には子供ができず、結局、最上家では弟・義建(よしたつ)の孫・最上義守が後々家督を継ぐことになります。

義守は、後の時代に伊達家と強く関わってくる最上義光義姫のトーチャンです。

何がどうなるかわからない――まさに歴史の醍醐味かもしれません。

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稙宗29歳のとき10代将軍・足利義稙に進物を送り、その見返りに「稙」の字をもらいました。

実は、義稙は一度京を追われて将軍に返り咲いた人です。

その辺の話はややこしいので日を改めますが、縁起がいいかどうかでいえば、どちらかというと悪い気がします……が、当人たちは気にしなかったのでしょうか。それとも当時は縁起が良いと思われていた?

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同時に、稙宗は左京大夫に任官されています。

左京太夫とは左京(京都の東半分・御所から見て左)の司法・行政・警察を司る「京職」のトップです。

東北においては、奥州探題・大崎氏が世襲する官位とされていました。

そのため、この官位を稙宗が得るということは、伊達氏>大崎氏という立ち位置が公的に認められたも同然ということになります。

 


正室1人&側室5人で「14男7女」という大所帯

こうして室町幕府や官位を利用しつつ、稙宗は自分の子供を養子や嫁として他家に送りつけ、勢力を広げていきました。

政略結婚というのはよくある話ですが、稙宗の場合はその規模が違います。

なんせ稙宗は、14男7女という子沢山だったのです。

正室は当然1人で、側室が5人。

そのうち正室の泰心院と側室1人(名前不明)が6人ずつ、他4人の側室が1~4人ずつ産んでいます。

子供ができやすい人をより寵愛したのでしょうか。それにしても命中率高すぎ。

幼名しか伝わっていない人もいるので、夭折したと思われるのですが、それを差し引いても他家に送り込んだ人数はかなりのものです。

しかし、他家からすれば気に入らない手法であることは、なんとなく予想がつきますよね。

縁が繋がったとはいえ、よその家から口と手を出されるキッカケができてしまうのですから。

特に、最上家は上記のような経緯で伊達家から正室を迎えさせられているので、義定が亡くなった永正十七年(1520年)に家臣たちが「もう伊達家なんかに従わないんだから!」(※イメージです)と反旗を翻しています。

稙宗は最上家の支城を次々と落とし、最終的に最上家を支配下に置きました。

これにより、室町幕府初の陸奥守護に任じられます。

やっぱり能力は高かったんでしょうなぁ。

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