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【伊達稙宗】
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171条にも及ぶ「塵芥集」は庶民も読める
天文元年(1532年)、伊達稙宗は居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移します。
ここで様々な掟や、税収を記録する台帳などを作って内政に力を入れました。
その中で最も有名なのが戦国時代の分国法としてお馴染みの『塵芥集』というわけです。
中身は、今でいうところの民法と刑法。
171条にも及ぶ詳細な法律で、一般庶民も読めるようにかなも使われているのが特徴でした。
また、塵芥集の制定と同じ年に、大崎氏の内乱鎮圧のため、当主である大崎義直の要請に応じて兵を動かして治めています。
その代わりに次男・伊達義宣を義直の娘婿として跡継ぎにさせました。
狙いがあまりにもスケスケでいっそ清々しいですね。
こうして東北の大部分に影響を与えるようになった稙宗でしたが、その後二つの火種を作ってしまいました。
他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れ
一つ目は、三男・伊達実元の養子入りに関わるトラブルです。
稙宗は、越後守護・上杉定実のもとへ息子の実元を送り込み、大崎家と同じように上杉家を実質的な傘下に置こうとしました。
その際「実元に伊達家の武士を100人つけて送り出そう」と言い出したのです。
しかし、伊達家から、デキる配下を大量に引き抜かれていってはたまらないので、息子・伊達晴宗らに大反対されます。
もう一つは、娘婿である相馬顕胤への伊達領割譲でした。
特に理由もないのに「婿殿、気に入ったから領地あげちゃうよ♪」(超訳)などとのたまったので、やっぱり晴宗らが大反対します。当たり前ですね。
上がそんなんなので、家臣たちも分裂していきます。
他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れしてどうするよ……とツッコむ人はいなかったんでしょうか。
このころ稙宗は50代になっているため、周りからすれば「耄碌した」としか思えなかったはず。
ついに始まる天文の乱
こうして家中に不穏な空気が漂う天文十一年(1542年)、伊達稙宗は鷹狩りの帰路、息子である伊達晴宗にとっ捕まり、幽閉されてしまいます。
おそらく晴宗としては、父を無理やり隠居させて当主になり、「代替わりしたから、親父がやろうとしてたことは全部帳消し!」とするつもりだったのでしょう。
しかし今度は、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)が稙宗を救出したため、話が余計にこじれてしまいます。
宗朝は若い頃から稙宗の世話になっており、後には殉死したほどの人物。
このときも「殿の窮地をお救いしなければ!」と忠義に燃えていたのでしょう。
これを契機に【天文の乱】というカオスな戦が始まってしまのですからやってられません。
そもそも「父 vs 子」という構図です。
その上に、奥州のほとんどが親戚同士になっていたため、どこを切り取っても「親戚 vs 親戚」という骨肉の争いに発展。
もはや何のために養子や嫁をやったのかわからない有様です。
しかもそう仕向けた張本人が火種だというのですからたまったもんじゃありません。
養子や嫁に行った子供たちも「オヤジ何してんだよ!」と言いたかったことでしょう。
そして……。
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