日本の歴史では「将軍」というと、普通、幕府のトップのことを意味します。
しかし、当初この役職は幕府というシステムとは関係ありませんでした。
幕府という政治体制を作ったのは源頼朝ですが、彼以前にも征夷大将軍に任じられた人はたくさんいるからです。
今日の主役は、頼朝より前の時代では一番有名なあの人です。
延暦十六年(797年)11月5日、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任命されました。
「姓がどこまでなのか?」一瞬わからないお人ですが、「の」が入っている通り「坂上」が姓で「田村麻呂」が名前です。
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初の征夷大将軍ではなく2番目だった
坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)生まれ。
父は坂上苅田麻呂(かりたまろ)です。
田村麻呂は、歴史の授業で暗記させられる名前としては、覚えやすい方ですよね。
特にアラフォー以上の方だと「初めての征夷大将軍だったよね?」という方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、その後の研究の結果、どうも2人目っぽい……ということで、現在では「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)」が最初の征夷大将軍であり、そのとき田村麻呂は副将軍。その後、2代目の征夷大将軍になったとされます。
田村麻呂はもちろん貴族階級の出身ですが、渡来人の末裔ということもあってか、いろいろと「らしくない」様子が伝わっています。
坂上氏自体が武門の家柄なので、トーチャンの坂上苅田麻呂(かりたまろ)からして超働き者。
朝廷に対する反乱が起きるたびに鎮圧に出かけ、あの称徳天皇と道教のゴタゴタのときも皇室を守り、一度は「お前も反乱起こしたヤツの仲間だろ!」的な因縁をつけられて解任されるものの、その年のうちに復職したという経歴の持ち主です。
トーチャンがそんな感じですから、息子の田村麻呂も当初から期待の目で見られていたことでしょう。
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副将として蝦夷征伐で大活躍
折りしも同時期は蝦夷(えみし・この時代にいた東北地方の人たちでアイヌとは別)との衝突が頻発。
延暦8年(789年)には紀古佐美(きのこさみ)という田村麻呂の先達にあたる人が大敗していました。
「こりゃヤバいぞ……」
本気で焦り始めた朝廷は延暦10年(791年)に大伴弟麻呂を征夷大将軍に任命し、そのとき副将の一人として田村麻呂が選ばれます。
ただし出発したのはその2年後のことで、ついに蝦夷と激突!
延暦13年(794年)6月に「副将の田村麻呂が蝦夷をやっつけたよ!」と記録されるほどの活躍ぶりでした。
『日本紀略』によると、457の首を挙げ、150人の捕虜を捕らえたとあります。
さらには85頭の馬を奪い、75箇所もの村落を焼き討ち。
奥州は古くから馬産地として知られていますので、さぞかし名馬も多かったのでしょう。
実は朝廷は、この後も蝦夷の武力に苛まされることになりますが、そもそも東北は馬術にすぐれ、同時に弓の鍛錬にも長けていたと目されています。
それで中央の貴族もビビっていたんですね。
ともかく坂上苅田麻呂らは十分な戦果を挙げ、翌年正月に平安京へ凱旋しました。
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38歳で大将軍ってかなりの出世街道
田村麻呂の活躍は、朝廷にも認められたのでしょう。
従四位上の位階を与えられ、近衛少将のまま木工頭にも就任。
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さらに延暦15年(796年)には陸奥(現在の福島・宮城・岩手)に関する役職をいくつも兼任した上で、翌年の延暦16年(797年)11月5日、征夷大将軍に任じられます。
ときに田村麻呂は38歳。
23歳で初任官、38歳で一軍を任されるって、相当なスピード出世です。それほど優秀だったんでしょうね。
田村麻呂はその期待に応え、延暦21年(802年)には陸奥国へ進軍(兵数は4万とも)。
胆沢城を造営して多賀城から鎮守府を移し、これまで散々手こずらせてきた蝦夷のリーダー・阿弖利為(あてるい)と盤具公母禮(いわぐのきみもれ)の降伏を受け入れて、京都まで護送します。
彼は「降ってきたんだから、命だけは助けてやりましょうよ」という意見でした。しかし……。
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