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コチラは上野戦争の様子です/国立国会図書館蔵

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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

市川・船橋戦争って注目度が低いよね…… 上野戦争前に起きていた戊辰戦争の局地戦

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千葉都民のベッドタウンで起きていた市川・船橋戦争

四十七ある日本の都道府県の中で、歴史の授業で舞台になるところは、おそらく1/3ぐらいのような気がします。
学校の方針によっては、地域史にウエイトを置くところもありますが、本日は歴史的にさほど……、いや、ほとんど注目されることのない地域で起きた幕末の戦争のお話。

慶応四年(明治元年=1868年)閏4月3日、戊辰戦争の局地戦の一つ「市川・船橋戦争」がありました。

両市とも、現在では「千葉都民」と呼ばれる都内への通勤・通学者が多く住むベッドタウン。
いったいどのようにして歴史の渦中に飲まれていったのでしょうか。

 

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上野戦争が5月 市川・船橋戦争は4月なのですが

この年はうるう年。時系列がややこしくなりますが、3月→4月→閏4月→5月の順になります。
江戸城の無血開城が決まったのが3月14日、実現したのが4月4日です。

つまり市川・船橋戦争は、江戸城が新政府軍に明け渡されようとしているところで、まだ諦めていなかった佐幕派vs新政府軍の間で起きた戦いということになります。

ちなみに、現在の上野恩賜公園付近が戦場になった上野戦争は、市川・船橋戦争より一ヶ月以上後のことです。
位置関係からすると不思議な感じがしますが、これは佐幕派側のメンバーが違うからでしょうね。

江戸城が明け渡された後、佐幕派の中には千葉県の各所に逃れた者が少なくありませんでした。函館戦争まで戦い抜いたことで有名な榎本武揚は館山に、福田道直という別の幕臣は木更津にそれぞれ向かっています。
市川にやってきたのは、幕府で西洋式軍隊の育成にあたっていた、大鳥圭介という人物でした。

大鳥圭介/wikipediaより引用

大鳥は市川市国府台に腰を落ち着けて、新政府軍への抵抗を試みます。
ここは近隣地域でも歴史の古いところで、文字通り国府が置かれ、戦国時代には千葉氏や里見氏、後北条氏などが争った国府台合戦の舞台でもありました。
「台」の字が表す通り小高い土地でもあり、陣を置くには適当な場所だったのです。

大鳥が国府台にいると聞いた福田は、増援のため兵を派遣しました。
最初は兵300を中山法華経寺に、次に兵600を船橋大神宮に送っています。
寺社を陣所にするあたりが、いかにもなりふり構ってない感じがしますね。

が、この間に大鳥は市川から撤退してしまっていました。
なぜなら、流山で鳴りを潜めていた新撰組局長・近藤勇が新政府軍に捕まったことを、逃げてきた土方歳三に聞いたからです。
おそらく大鳥は、市川で戦っているうちに新撰組などの佐幕派と少しでも合流できれば……と考えていたのでしょう。しかし、局長の近藤が捕まってしまっては、組織的な協力は期待できません。
そのため、「ここで踏ん張るよりも、会津藩へ向かったほうが頭数を揃えられる」と考え、速やかに人を畳んで北へ向かいました。

 

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両者共に意外な展開に戸惑い、そして戦乱へ

要するに、ものの見事に本隊と増援がすれ違ってしまったことになります。

しかし、新政府軍としてもこれは予想外のことでした。
新政府軍側では「大鳥は北に向かった」=「今、市川には佐幕派はいない」という前提で動いていたのに、いきなり別の900人を相手にしなくてはならなくなったのですから。

「とりあえず、武装解除させて戦いを避けよう」と意見が出て、佐幕派のほうでも一時は「ウチらだけじゃ江戸を取り戻せないし、徳川のご家名を保たせてもらえるなら」と応じる動きになりました。
が、使者が陣所に戻ってこれを伝えると、案の定「そんなもん受け入れられるか!」と非難轟々。結局戦闘が始まってしまったのでした。

新政府軍は市川の弘法寺に本陣を置き、閏4月3日に戦いの火蓋が切って落とされました。
元々、この辺は丘と平地が交互に並んでいるような地形です。弘法寺と法華経寺は丘にあたりますが、その間の八幡あたりは平地というかくぼみというか、そんな感じになっています。
つまり、奇襲をかけやすい地形なわけです。
実際、3日の早朝に佐幕派が新政府軍の陣地を奇襲したとき、新政府軍は総崩れになった上、大砲を2門も奪われたといいます。

しかし、昼頃に新政府軍の増援が松戸と新宿の二方面から来ると形勢は逆転。佐幕派は船橋への撤収を決めました。

そして今度は、船橋でも大混乱が起きます。
新政府軍も佐幕派も、それぞれ「今は味方が優勢で、船橋に向かっている」と信じ込んでいたために、予期せぬ鉢合わせをしてしまったのです。
こうして数百人同士の戦いが複数ヶ所で同時進行する、という実にややこしい戦いとなりました。

 

 放火をしたらこうなった→船橋の町で814軒が焼失

船橋方面では、新政府軍が船橋大神宮の周辺に布陣、大砲も使って一気に攻めかかりました。
そのうち大神宮が大砲の直撃を食らって炎上して、佐幕派は総崩れとなります。

さらに、海側から行軍してきた新政府側の増援が、市川と船橋の中間地点に陣取り、佐幕派の連絡を絶ってしまいます。
市川方面から船橋方面へ逃れようとしていた佐幕派は、ここで挟み撃ちにあって木っ端微塵になってしまいました。

その後、大神宮で圧倒的な劣勢になっても抵抗を続ける佐幕派に業を煮やした新政府軍は、火を放って攻めかかります。これが強風に煽られて、大神宮や佐幕派の陣所どころか、船橋の町を814軒も焼いてしまいました。って、なぜ予想しなかった?
ちなみに、市川でも砲撃等によって大火災となり、127軒が焼けています。
公的な記録では、新政府軍の死者は20名・佐幕派は13名といわれていますが……ここに、火災で亡くなった一般人は含まれていないのでしょうね。
いなかったらそれはそれで結構なことですけれども、「勝てば官軍」にもほどがありませんかね……。

 

お殿様のいない地域だから直接民衆へ下賜金を

不幸中の幸いは、戦闘が一日で終わったことでした。
翌日には新政府軍からの特使として、柳原前光(大正天皇生母・柳原愛子の兄)が状況を確認し、市川・船橋それぞれに下賜金を出しています。
住民が新政府に敵意を持ち続けないように、という狙いだったようです。このあたりは幕府の直轄領や旗本の領地が多く、いわゆる「お殿様」がいなかったため、「トップ(藩のお偉いさん)を抑えればなんとかなる」という土地柄ではなかったからでしょうね。民衆を直接手なずける必要があったのです。

ワタクシもこの辺で育ったのですが、戊辰戦争に関することで、「佐幕派や明治政府への恨みが云々」という話は聞いたことがありません。
当事者の一人(寺)だった中山法華経寺には、「戊辰戦争に巻き込まれたせいで境内が焼けてしまい、当時の僧侶たちは経文などを守って逃げました。非常に迷惑でした」(超訳)と言うようなことが書かれた石碑がありますが。
長くこの辺りに済んでいらっしゃるお宅なら、似たような印象を持っているかもしれません。

長月 七紀・記

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参考:市川・船橋戦争/wikipedia

 




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