第二次世界大戦のとき、アメリカにあった黒人兵だけによる編成部隊。
これより紹介させていただくタスキーギ・エアメンという陸軍航空隊も、その1つです。
1939年4月3日に米議会で承認され、今や戦後70年も過ぎて、当時の隊員も次第に鬼籍に入るようになりましたが、また1人が亡くなられました。
ウォー・ヒストリー・オンラインで追悼しておりました(2014年1月24日付け)。
亡くなられたのはジェームズ・ボーマン氏。
ピッツバーグ近郊で亡くなられたのですが、享年91だったそうですから、戦争に駆り出された頃は20歳になるかならないかという若さだったのですね。
お好きな項目に飛べる目次
公然と法的に差別されながらも戦場に
まずは部隊の成り立ちなどを、サラッとウィキペディアの英語版(→link)から解説していきましょう。
当時のアメリカにはジム・クロウ法と言うのがありました。
ざっくり言うと、人種差別を規定したもので、公共の一般施設を黒人などの有色人種が利用する事を禁じていたのです。
この法律が軍隊にも適用されており、白人の兵士と有色人種系の兵士とは分離されていました。
パイロットの場合、アラバマ州にあるタスキーギ陸軍航空隊基地と、モートン・フィールド基地で訓練され、前線に送り出されていきました。
部隊名は、正式には第332戦闘群と第477爆撃群という名称でしたが、こうした基地で訓練されたという事もあって、俗称として使われていたタスギギー・エアメンが定着していったようです。
初陣は1943年4月の北アフリカ。
第99追撃群という名称(後に第99戦闘群と改称)で、派兵され、シチリアやイタリアで転戦していきます。
翌年の1944年、第332戦闘群は重爆の護衛任務につくようになります。
翌月には、こうした黒人パイロットの戦闘機部隊が4つになった事を見ると、戦績は良かったのでしょうね。
第一次大戦での屈辱から「俺達にも戦わせろ」
ワタクシメのような根っからのヘタレで根性が歪んだ身としては「差別されてまで戦うかね」と思ってしまいますが、こうした部隊の編成には黒人層からの要求があったのだそうです。
話は第一次世界大戦にまで遡ります。
当時、黒人が軍のパイロットになるのは認められておらず、1917年にはユージン・ブラードという人が志願したものの、拒絶されたのでフランスの航空部隊に入ったというエピソードが残っているぐらい。
ちなみに、この方は後にアメリカに戻り、今度は陸軍の歩兵として従軍します。
「歩兵ならOKなんかーい!」って感じですね。
ともあれ、このような拒否に黒人側が怒り、その後20年間に渡って「俺達にもパイロットとして戦わせろ」という運動に繋がっていったのです。
こうした運動を、当時の市民運動家として活躍していたウォルター・ホワイトや有色人種地位向上協会などが後押しし、更にはウィリアム・H・ハスティーという裁判所の判事までが賛同するようになったので、法律の部分改正での編成・運用となりました。
1939年4月3日、第18公共法予算案が可決され、陸軍省で黒人パイロット養成の学校開設が認可されます。
この後5ヶ月足らずで第二次世界大戦が勃発する事を思えば、まさにギリギリでの法律成立だったと言えましょう。
もっとも、運用に当たっては白人パイロットと分離されていました。
将校だけは白人だったそうですが、任命された方もやりづらかった事でしょう。
ちなみに、こうした運用は歩兵部隊にも適用されていました。
黒人の私立大学で訓練されたパイロット
上記のタスキーギには、黒人が通う私立大学(タスキーギ大学)がありました。
そこでは1939年から民間パイロット訓練プログラム(CPTP)というのが行われており、当時の多くの黒人青年が参加。
こうした人達が、そのまま陸軍航空隊のパイロットになっていったのですから、養成に至る道のりはスムーズだったようです。
ただし、実戦の段階では上層部がおっかなびっくりだった模様です。
用心深いというか、タスキーギと同じアラバマ州にあるマックスウェル陸軍航空隊基地で専門の心理研究部隊を設け、士官候補生(何しろ将校がいないし)養成やアイデンティティー確立などの教育を施していたと言います。
IQテストまであったとの事ですから、何とは無しに、黒人を見下している感じがしますね。
法的に差別中のアメリカVS差別の権化ナチス
考えて見れば、こうやって差別(当時のアメリカ政府は『分離』と言い直している)しながら兵隊を運用していたアメリカが、差別の権化であるナチスと戦っていたのですね。何だかなぁな構図ですな。
話をタスキーギに戻しますと、この地で第99追撃群が編成されたのは1941年6月。
47人の将校と429人の兵員で構成されていました。
訓練の為に基地も拡張され、地元の黒人系の請負業者(ここらも世論を考えていたのでしょう)が半年の突貫工事でやり遂げたそうです。
ただ、施設建設は上手く行ったものの、基地の司令官が、専任の歩哨(黒人兵)や憲兵の権限が地元の白人によって構成される警察よりも上であると主張し、更迭されるという一幕もあったとの事です。
その後任の司令官は、地元の習慣を尊重しつつ分離政策を維持しながらの運用としました。
名前がフレデリック・フォン・キンブル。
明らかにドイツ系ですね。何の因果なんだか。
※続きは【次のページへ】をclick!