慶応四年(=明治元年・1868年)閏4月3日、戊辰戦争の局地戦の一つ【市川・船橋戦争】がありました。
両市とも、現在では「千葉都民」と呼ばれるほど代表的なベッドタウン。
一体どのようにして激動の幕末動乱に巻き込まれていったのか。
その歴史を振り返ってみましょう。
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上野戦争が5月 市川・船橋戦争は4月
市川・船橋戦争は閏月に起きていて、見慣れぬ方はちょっと時系列がややこしいかもしれません。
閏月とは、旧暦で使われるシステムで、1年を365日に調整するため挿入されるものです。お察しの通り、旧暦だと1年の日数が足りないため、それを補うんですね。
例えば【3月→4月→閏4月→5月】という風に進んでいきます。
江戸城の無血開城が決まったのが3月14日、実現したのが4月11日。
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そしてその次に閏4月が来ますので、市川・船橋戦争は、江戸城が新政府軍に明け渡された直後のことで、まだ諦めていなかった「佐幕派vs新政府軍」の間で起きた戦いということになります。
ちなみに、現在の上野恩賜公園付近が戦場になった上野戦争は、市川・船橋戦争より一ヶ月以上後のこと。
位置関係からすると不思議な感じがしますが、これは佐幕派側のメンバーが違うからでしょうね。
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江戸城が明け渡された後、佐幕派の中には千葉県の各所に逃れた者が少なくありませんでした。
函館戦争まで戦い抜いたことで有名な榎本武揚は館山に、福田道直という別の幕臣は木更津にそれぞれ向かっています。
市川にやってきたのは、幕府で西洋式軍隊の育成にあたっていた、大鳥圭介という人物でした。
大鳥は市川市国府台に腰を落ち着けて、新政府軍への抵抗を試みます。
増兵されるも撤退していた理由
国府台は近隣地域でも歴史の古いところ。
文字通り国府が置かれ、戦国時代には千葉氏や里見氏、後北条氏などが争った国府台合戦の舞台でもありました。
「台」の字が表す通り小高い土地でもあり、陣を置くには適当な場所だったのです。
大鳥が国府台にいると聞いた福田は、増援のため兵を派遣しました。
最初は兵300を中山法華経寺に、次に兵600を船橋大神宮に送っています。
が、この間に大鳥は市川から撤退してしまっていました。
なぜなら、流山で鳴りを潜めていた新選組局長・近藤勇が新政府軍に捕まったことを、逃げてきた土方歳三に聞いたからです。
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おそらく大鳥は、市川で戦っているうちに新選組などの佐幕派と少しでも合流できれば……と考えていたのでしょう。
しかし、局長の近藤が捕まってしまっては、組織的な協力は期待できません。
そのため「ここで踏ん張るよりも、会津藩へ向かったほうが頭数を揃えられる」と考え、速やかに人を畳んで北へ向かいました。
両者共に意外な展開に戸惑い そして戦乱へ
要するに、ものの見事に本隊と増援がすれ違ってしまったことになります。
しかし、新政府軍としてもこれは予想外のことでした。
新政府軍側では「大鳥は北に向かった」=「今、市川には佐幕派はいない」という前提で動いていたのに、いきなり別の900人を相手にしなくてはならなくなったのですから。
「とりあえず、武装解除させて戦いを避けよう」と意見が出て、佐幕派のほうでも一時は「ウチらだけじゃ江戸を取り戻せないし、徳川のご家名を保たせてもらえるなら」と応じる動きになりました。
しかし、使者が陣所に戻ってこれを伝えると、案の定「そんなもん受け入れられるか!」と非難轟々。
結局戦闘が始まってしまったのでした。
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