こちらは市川・船橋戦争の約1ヶ月後に起きた上野戦争の様子(歌川芳盛作)/wikipediaより引用

幕末・維新

市川・船橋戦争は戊辰戦争の局地戦~上野戦争の直前に起きた戦いの結末は?

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 放火をしたらこうなった→船橋の町で814軒が焼失

船橋方面では、新政府軍が船橋大神宮の周辺に布陣、大砲も使って一気に攻めかかりました。

そのうち大神宮が大砲の直撃を食らって炎上して、佐幕派は総崩れとなります。

船橋大神宮

さらに、海側から行軍してきた新政府側の増援が、市川と船橋の中間地点に陣取り、佐幕派の連絡を絶ってしまいます。

市川方面から船橋方面へ逃れようとしていた佐幕派は、ここで挟み撃ちにあって木っ端微塵になってしまいました。

その後、大神宮で圧倒的な劣勢になっても抵抗を続ける佐幕派に業を煮やした新政府軍は、火を放って攻めかかります。

これが強風に煽られて、大神宮や佐幕派の陣所どころか、船橋の町を814軒も焼いてしまいました。

ちなみに、市川でも砲撃等によって大火災となり、127軒が焼けています。

公的な記録では、新政府軍の死者は20名・佐幕派は13名といわれていますが……ここに火災で亡くなった一般人は含まれていないのでしょうかね。

いなかったらそれはそれで結構なことですけれども、「勝てば官軍」にもほどがありませんか。

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お殿様のいない地域だから直接民衆へ下賜金を

不幸中の幸いは、戦闘が一日で終わったことでした。

翌日には新政府軍からの特使として、柳原前光(大正天皇生母・柳原愛子の兄)が状況を確認し、市川・船橋それぞれに下賜金を出しています。

柳原前光/wikipediaより引用

住民が新政府に敵意を持ち続けないように、という狙いだったようです。

このあたりは幕府の直轄領や旗本の領地が多く、いわゆる「お殿様」がいなかったので、「トップ(藩のお偉いさん)を抑えればなんとかなる」という土地柄ではなかったのも影響しているでしょう。

彼らにしても、民衆を直接手なずける必要があったのです。

ちなみにワタクシも、この辺で育ったのですが、戊辰戦争に関して「佐幕派や明治政府への恨みが云々」という話は聞いたことがありません。

当事者の一人(寺)だった中山法華経寺には、

「戊辰戦争に巻き込まれたせいで境内が焼けてしまい、当時の僧侶たちは経文などを守って逃げました。非常に迷惑でした」(超訳)

というようなことが書かれた石碑がありますが。

長くこの辺りに済んでいらっしゃるお宅なら、似たような印象を持っているかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
安岡昭男 『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
市川・船橋戦争/wikipedia

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