1381年7月15日は「ワット・タイラーの乱」で主導者の一人だったジョン・ボールが処刑された日です。
百年戦争中のイングランドで起きた騒動なのですが……。
他にも色々と要因がありますので、時代背景の要点から見てまいりましょう。
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ペストで人が減り 税金も上げられ
大本の元は1348年ごろ。
ヨーロッパ全域で黒死病が流行り始め、フランスもブリテン島も例外ではありませんでした。
そして1351年から百年戦争が休戦に入ります。
イングランドはその間、労働者規制法を設け、農業従事者への抑圧を強めました。
そうでなければ食料も税も徴収しにくくなるからです。
1376年には「黒太子」というファンタジーな二つ名を持つイングランド王子・エドワードが死去。
翌1377年にはその父であるエドワード3世が崩御し、黒太子の子・リチャード2世が10歳でイングランド王に即位しました。
同年、評議会らによって軍費のための人頭税が導入されています。
この時点では4ペンス/一人という税率だったのですが、ここから数年で税率が激増していきました。
そしてついに1380年、人頭税が1シリング/一人という高額になってしまいました。
当時の農民の6~12日分の収入であり、1377年の三倍にあたる額です。
日本の消費税でさえ
1989年(3%)
↓
1997年(5%)
↓
2014年(8%)
↓
2019年(10%&軽減税率8%)
と、30年かけて3.3倍ですから、当時のイングランドの横暴ぶりがイメージできるでしょうか。
当然払える人は多くなく、脱税する人が相次ぎました。
過激な持論を持つ神父様 ジョン・ボール
税が取れないと国の運営も戦争もできない――。
ということで、イングランド政府は1381年に脱税調査を始めました。
しかし、そもそも税が重すぎるから脱税が頻発するわけですから、税率をどうにかするのが先ですよね。
それを無理やりもぎ取られそうになったため、民衆は大激怒。
1381年5月にケントで農民一揆が起きたのを皮切りに膨れ上がり、翌6月にはワット・タイラーという男を中心として大規模な反乱が勃発します。
修道院の領地や荘園領主の屋敷を襲う者もいたそうです。
そしてその中には元司祭のジョン・ポールも先導に加わっていました。
彼はなかなか過激な人で、かつてはイングランドを巡回して
「今の教会や政府は間違っている!」
といった内容の演説をしていたといわれています。
やり方が上手ければ、彼がプロテスタントの創始者になっていたのかもしれません。
しかし、こんな演説が政府に睨まれないわけがなく、ワット・タイラーの乱が起きた頃は、彼も投獄されてしまいます。すると……。
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