ワット・タイラーの乱

ワット・タイラーの反乱軍と会見するリチャード2世/wikipediaより引用

イギリス

ワット・タイラーの乱は誰のせいなのか 英仏の長過ぎる「百年戦争」が招いた不幸

1381年7月15日は「ワット・タイラーの乱」で主導者の一人だったジョン・ボールが処刑された日です。

百年戦争中のイングランドで起きた騒動なのですが……。

他にも色々と要因がありますので、時代背景の要点から見てまいりましょう。

 


ペストで人が減り 税金も上げられ

大本の元は1348年ごろ。

ヨーロッパ全域で黒死病が流行り始め、フランスもブリテン島も例外ではありませんでした。

そして1351年から百年戦争が休戦に入ります。

イングランドはその間、労働者規制法を設け、農業従事者への抑圧を強めました。

そうでなければ食料も税も徴収しにくくなるからです。

1376年には「黒太子」というファンタジーな二つ名を持つイングランド王子・エドワードが死去。

翌1377年にはその父であるエドワード3世が崩御し、黒太子の子・リチャード2世が10歳でイングランド王に即位しました。

同年、評議会らによって軍費のための人頭税が導入されています。

この時点では4ペンス/一人という税率だったのですが、ここから数年で税率が激増していきました。

そしてついに1380年、人頭税が1シリング/一人という高額になってしまいました。

当時の農民の6~12日分の収入であり、1377年の三倍にあたる額です。

日本の消費税でさえ

1989年(3%)

1997年(5%)

2014年(8%)

2019年(10%&軽減税率8%)

と、30年かけて3.3倍ですから、当時のイングランドの横暴ぶりがイメージできるでしょうか。

当然払える人は多くなく、脱税する人が相次ぎました。

 


過激な持論を持つ神父様 ジョン・ボール

税が取れないと国の運営も戦争もできない――。

ということで、イングランド政府は1381年に脱税調査を始めました。

しかし、そもそも税が重すぎるから脱税が頻発するわけですから、税率をどうにかするのが先ですよね。

それを無理やりもぎ取られそうになったため、民衆は大激怒。

1381年5月にケントで農民一揆が起きたのを皮切りに膨れ上がり、翌6月にはワット・タイラーという男を中心として大規模な反乱が勃発します。

修道院の領地や荘園領主の屋敷を襲う者もいたそうです。

そしてその中には元司祭のジョン・ポールも先導に加わっていました。

彼はなかなか過激な人で、かつてはイングランドを巡回して

「今の教会や政府は間違っている!」

といった内容の演説をしていたといわれています。

やり方が上手ければ、彼がプロテスタントの創始者になっていたのかもしれません。

しかし、こんな演説が政府に睨まれないわけがなく、ワット・タイラーの乱が起きた頃は、彼も投獄されてしまいます。すると……。

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