ワット・タイラーの乱

ワット・タイラーの反乱軍と会見するリチャード2世/wikipediaより引用

イギリス

ワット・タイラーの乱は誰のせいなのか 英仏の長過ぎる「百年戦争」が招いた不幸

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農民たちを引き連れ ロンドンを占領

反乱軍によって救出された後、ジョンはロンドンへ向かう前に演説を敢行。

「アダムが耕しイヴが(糸を)紡いでいた頃、誰がジェントリだったのか!」

そう高らかに声を揚げて、大いに士気を高めたといいます。

ジェントリとは「正式な貴族ではないが、地元に権力を持つ大地主」といった感じの人たちのことです。

日本語では「郷紳(きょうしん)」と訳されます。

「地主が権力を持ち、小作人をいじめる」なんてのは、日本史でもよくある話ですね。

ワットたちはケント地方から農民たちを引き連れ、なんとロンドンを占領してしまいます。

ロンドンって他国には落とされないのに、自国内の争いだと何回も陥落したり爆発したり大火事になったりしますよね……。

6月12~13日には、農民軍がロンドンの監獄に突撃。

反乱軍は土地の証書を焼却処分するやら、教会のお偉いさんをブッコロすわでいよいよ大事になりました。

ここでワットらは国王への謁見を要求。

ついにときのイングランド王・リチャード2世が出てきました。

 

国王との談判には成功、しかし……

6月14日、ロンドン北東部のマイル・エンドで農民の指導者と会見の場が用意されました。

リチャード2世は、自由契約労働や生産物売買の自由など、農民の要求を受け入れます。

すると、これに溜飲を下げたのか、一揆勢の一部はここで帰途につき、残った人々が翌15日に再度、王の交渉します。

このとき動いたのがワット・タイラー。

短剣を携えてリチャード2世に迫ろうとします。

と、それにいち早く反応したのがロンドン市長のウォルワースでした。不審な動きのワットを見て即座に斬りかかり、リチャード2世は難を逃れたとされています。

そしてワットは即日首をはねられ、指導者を失った叛徒たちは散り散りになっていきました。

ワット・タイラー殺害の様子を描いた一枚/wikipediaより引用

そしてジョン・ボールも捕らえられ、1ヶ月後の7月15日に「首吊り・内臓抉り・四つ裂き」という過酷な刑を下されています。

ちなみに1358年のフランスでも、似たような経緯で【ジャックリーの乱】という農民反乱が起きています。

理由や経過、結末もだいたい同じようなもの。

しかしジャックリーの乱では、農民と貴族が全面戦争に近い状態にまで燃え盛り、皆殺しをやった・やり返したという恐ろしい状態になりました。

いつの時代も、王様が税や戦争のことしか考えないとロクなことになりませんねぇ。

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長月 七紀・記

【参考】
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上) 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
ほか

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