天正二年(1574年)7月16日は、五龍局(ごりゅうのつぼね)が亡くなった日。
中国地方の雄・毛利元就の娘であり、安芸の国衆・宍戸隆家の妻です。
元就が亡くなったのが元亀二年(1571年)ですから、それからわずか3年後のことだったんですね。
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元就夫妻から溺愛された五龍局
五龍局は生年が不明ですので享年もハッキリしません。
長男・毛利隆元から見て妹、かつ次男・吉川元春の姉とされていることから、大永三年~享禄三年(1523~1530年)の間となります。
生母も毛利三兄弟と同じで、元就の正室・妙玖でした。
となると、享年は50前後ぐらいでしょうか。この時代としては平均的といったところです。
本当は隆元の上にも姉がいたとされているのですが、かつて元就の弟・相合元綱(あいおうもとつな)に味方しようとした高橋氏の人質となり、元就が同家を攻めた際に殺害された……といわれています。
そのためか、実質的に長女とみなされた五龍局は、元就夫妻から溺愛されたそうです。
しかし、それが彼女と、とある人物との間に確執を生んだ……かもしれません。
「新庄局の手紙はまるで高圧的な武将のようだ」
五龍局は天文三年(1534年)、前述のとおり宍戸隆家(ししどたかいえ)と毛利家の和解のために嫁ぎました。
その後、吉川元春の正室・新庄局と静かな大ゲンカをしていたと言われています。
新庄局は弟の妻ですから、五龍局はいわゆる小姑という立場ですね。
新庄局は、夫の元春から「不美人だから嫁に向いている」という、なんだか失礼な評価を受けて嫁いだ人です。
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元春と新庄局の仲はかなり良好だったようですが、義理の姉である五龍局とは、気が強い者同士でぶつかり合うことが多かったのだとか。
やっぱり嫁と小姑の関係は難しいのですかね……。
元就いわく「新庄局の手紙は短文で、まるで高圧的な武将のようだ」とのこと。
また、小早川隆景から「姉上(五龍局)とも仲良くしていただけませんか」というような手紙を受け取ったとき、新庄局は返事すらしなかったとか。
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それなりの血筋と立場があって、しかも義理の弟から義理の姉に関する手紙の返事をしないって、現代の既読スルーどころの騒ぎじゃありません……。
元就は、五龍局について『三子教訓状』の中で、
「あの娘のことは気の毒に思っているので、せめてお前たち三兄弟が生きているうちは、苦労させないでほしい」
という感じのことを息子たちに向けて書いています。
父親からすると、五龍局のほうが女性らしく見えたのでしょうか。なんだか実の娘だからこそのひいき目もありそうです。
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