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【五龍局】
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嫁ぎ先では上手くやっていた
これだと、五龍局がいかにも「両親から甘やかされて育った、気が強い鬼嫁」のように思えてしまうかもしれません。
しかし彼女は、嫁ぎ先ではうまくやっていたようで、数々の子宝に恵まれています。
長女は別の国衆、次女は吉川元春の長男(そこ行くか!)、三女は毛利輝元へ嫁ぎ、全員正室という立場を手に入れているのです。
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元就としては、この武働きにも劣らぬ五龍局の功績に対し、引け目を感じていたのかもしれません。
でなければ、五龍局をたしなめたり、新庄局との仲を取り持つような言動が伝わっていてもいいはずですし。
五龍局のほうが30年ほど早く亡くなっているので、おそらく生涯、新庄局との関係は改善しなかったのでしょう。
二人とも長生きしていたら、秀吉政権時代や江戸時代にまでこの不仲が影響していた可能性もありそうです。
そういう意味では不幸中の幸い……なんでしょうか?
元就を助けた杉大方が生きていれば……
ついでですから、もう一人毛利家に関係する女性にも注目したいと思います。
この二人とは対照的に温厚だったと思われるのが元就の義母・杉大方(すぎのおおかた)です。
三子教訓状などでは「大方様」とも呼ばれていますね。
杉大方は元就の父・毛利弘元の二人目の正室でした。
弘元が諸々のストレスと酒によって急死した後、当時満9歳だった元就のため、実家に戻らず、再婚もせずに毛利家に残ったというなかなかの度胸を持った女性です。
元就の習慣や考え方に大きな影響を与えたと考えられている人物の割には、性格やエピソードが伝わっていないのですが……その頃は暮らしていくのに精一杯で、記録をつける人や余裕もなかったのでしょうか。
血の繋がらない元就があれほどの名将になったのですから、幼い頃一番接触していた杉大方の薫陶が大きい……はずです。
となると、杉大方もかなりの才女だったに違いありません。
杉大方は天文十四年(154年)に亡くなっているため、五龍局や新庄局と直接顔を合わせたり、手紙のやり取りをしたかどうかは不明です。
もしも、杉大方がもう少し長生きしていて、積極的に二人の仲立ちをしていたら……。
もう少し穏やかな関係になっていたのかもしれませんね。
しかし、息子たち三人と娘・嫁の二ヶ所でケンカが耐えなかった頃の元就の胃痛ぶりを考えると、涙がちょちょ切れます。
そりゃ、あんなに長い手紙を書くわけですよね。
手で文字を書くのはストレス解消や思考の整理に良いそうですから、それも長生きの秘訣……だったのかもしれません。
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち~70人の数奇な人生~』(→amazon)
火坂雅志『戦国を生きた姫君たち (角川文庫)』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
『「毛利一族」のすべて (別冊歴史読本―一族シリーズ (92))』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)
五龍局/Wikipedia