西郷隆盛を筆頭に大久保利通や小松帯刀、島津久光や島津斉彬など。
幕末維新で数多の英傑を輩出した豪傑・薩摩藩では、女性が活躍する場など皆無だろうなぁ……なんて考えてしまいがちです。
しかし、そんな薩摩において、京都から移り住み、歌人として名を成した女性がいます。
税所敦子(さいしょ あつこ)――。
文政8年(1825年)3月6日に生まれ、篤姫らと同じ幕末で才能を開花させ、実に「明治の紫式部」とも讃えられた女性。
知られざる才媛の生涯を追ってみましょう。
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父は歌人 自らも幼き頃より歌を習い、見初められ
税所敦子は、文政8年(1825年)、京都の公家侍・林篤国の娘として生まれました。
父・敦国は歌人として名高く、自宅で歌会が開催されるような家庭環境。
敦子もまた、歌人・千種有功(ちぐさ ありこと)に歌を習うようになりました。
才能を開花させた敦子を、見初めたのは薩摩藩士・税所篤之です。
篤之は妻と別れ、子を国元に預け京都で暮らしておりました。
和歌だけではなく絵画も得意とする、文化的な男性であり、彼もまた、千種有功の元で歌を学んでいたのです。
縁あって、二十歳の敦子は篤之に嫁ぎます。
弘化元年(1844年)のことでした。
残された娘と共に薩摩へ
文化人肌とはいえ、篤之は薩摩隼人でもあります。
女を人として扱うことは、薩摩隼人にとっては恥に他なりません。
敦子はそんな薩摩隼人のことは知らないため「私に問題があるのだ」と忍従しました。
今の女性ならキレそう、と思う人もいるとは思いますが、当時の女性でもキレる人は多いと思います……。
この結婚生活は長続きしませんでした。
離婚したのではありません。
篤之が肺を煩い、28才という若さで死去したのです。
彼との間にさずかった男児も夭折してしまいました。
ならば実家に戻ってもよいところですが、敦子はそうはしません。残された幼い娘とともに、姑に孝養を尽くすため薩摩へと向かったのでした。
【鬼婆などと人はいうなり】に上の句をつけてみよ!
見ず知らずの土地に向かった敦子。
そこには、姑と、篤之と前妻の間にできた女子二人が待っていました。
この姑が、メロドラマに出てくるような、意地の悪い女性でして、周囲の人も、ひそかに「あの鬼婆」と陰口を叩いていたとか。
姑は三人の娘を懸命に育てる敦子に、きつく当たります。
それでも敦子は「私がまだまだ足りないのだ」と堪え忍び、孝養を尽くします。
そんな姑はある日、虫の居所が悪かったのでしょう。こんなことを言ってきました。
「お前は歌を作るのが得意と聞いた。ではこの歌に上の句をつけてみなさい」
そう言って姑が差しだしてきたのは、こんな下の句でした。
【鬼婆などと人はいうなり】
なんとも難題を吹っかけてくる婆ぁめ!
と、並の読み手なら詰まって逃げ出したくなるでしょうが、敦子はジッと考えこんだあと、こう上の句をつけました。それが……。
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