古代の外交史で最も重要かつ注目度の高い【遣唐使】。
・何を目的として
・どんな時代に実施され
・なぜ廃止されたのか
学校の授業だと、そんなところが注目されがちで、一番最初は舒二年(630年)8月5日に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしのえにち)らが派遣されて始まりました。
とにかく命を賭けて出た危険な旅だけに、途中で失敗したものや、遭難したケースだけでなく、非常に興味深い出来事も起きております。
今回は第1回から第20回までの全てをスッキリまとめてみました。
早速、見てまいりましょう。
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飛鳥に始まり平安に廃止される
遣唐使は飛鳥~平安時代の日本から、唐(618~907年に存在していた中国の王朝)へ派遣されていた使節団のことです。
第一回は舒明天皇二年(630年)で飛鳥時代。
最後は寛平六年(894年)の平安時代でした。
遣唐使が何回派遣されたのかについては、出港せずに終わった回や、唐からの使者を送った場合を含めるか否かなどにより、若干のズレがあります。
そのため最大で20回、最小で12回と考えられています。任命自体は20回あったので、こちらで捉えておいた方がわかりやすいですね。
ざっと表にマトメておきましょう。
※受験生の方も覚える必要はないと思いますが、イメージしやすくなるでしょう
時代 | 回 | 出発年 | 帰国年 | 主な人物・関連事項 |
---|---|---|---|---|
飛 鳥 | 1 | 630年 | 632年 | 犬上御田鍬(大使)・僧旻帰国 |
2 | 653年 | 654年 | 粟田真人・2隻とも難破で生存者5人※後述 | |
3 | 654年 | 655年 | 高向玄理(押使)は唐で没する | |
4 | 659年 | 661年 | 大使・坂合部石布は漂流先で殺される | |
5 | 665年 | 667年 | 白村江の戦い(663年)初の遣唐使 | |
6 | 667年 | 668年 | ||
7 | 669年 | 不明 | ||
8 | 702年 | 704年 | 粟田真人、再び・唐と正式な国交回復目指す | |
奈 良 | 9 | 717年 | 718年 | 阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄昉ら唐に残る |
10 | 733年 | 734年 | 吉備真備・僧玄昉ら帰国 | |
11 | 746年 | 停止 | ||
12 | 752年 | 754年 | 長安で玄宗(楊貴妃LOVEな人)に拝謁 | |
13 | 759年 | 761年 | 唐は755年~の内乱「安史の乱」でズタボロ | |
14 | 761年 | 停止 | 唐で「安史の乱」継続中 | |
15 | 762年 | 停止 | 唐の沈惟岳が帰国できず日本帰化で官位 | |
16 | 777年 | 778年 | ||
17 | 779年 | 781年 | ||
平 安 | 18 | 804年 | 805年 | 空海・最澄・橘逸勢 ※空海は20年滞在予定を早々と切り上げる(結果的に大正解)※橘逸勢は帰国後に承和の変で失脚 |
19 | 838年 | 839年 | ||
20 | 894年 | 廃止 | 菅原道真の建議によって |
上記のように20回も派遣されてるわけで、国としてもチカラを入れていたのがおわかりのように、遣唐使はかなりの大所帯でもありました。
時期によって多少のズレはあるものの、以下のようなメンバーがおり、多いときには651人という大規模な一団だったのです。
・主役である大使・副使
・記録係などの役人
・医師や船員などの乗組員
・大陸へ学びに行く学生や僧侶
なかなかイメージするのが難しい数字ですが、「小学校や中学校一つ分の外交団」と考えると、何となく規模感が伝わりますかね。
渡来人が務めていた通訳も担うようになった
遣唐使一行の中で、歴史の変遷が伺えるのは「訳語」という役職です。
読み方は「やくご」ではなく「おさ」です。
なんだか妙な感じですが、現代でいえば通訳のオシゴトですね。
もともと日本には、古墳時代あたりから渡来人がやってきて定住するようになり、彼らが通訳として外交に貢献していました。
しかし時代が下ると、大陸のほうでも言葉が変化していったため、日本に定住した渡来人系の人々は、その役割をこなしにくくなっていきます。
そのため渡来人の末裔ではなく、遣隋使・遣唐使の経験者が務めるようになりました。
「言葉は生き物」とよく言われますが、まさにそれが感じられるような出来事ですね。
さて、次は航路の話です。
現代の地名で表記していきますので、地図を見ながら確認するのも一興ですよ。
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