遣唐使

遣唐使船/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

命を懸けてまで渡海していた「遣唐使」は何が目的でなぜ廃止されたのか?

古代の外交史で最も重要かつ注目度の高い【遣唐使】。

・何を目的として

・どんな時代に実施され

・なぜ廃止されたのか

学校の授業だと、そんなところが注目されがちで、一番最初は舒二年(630年)8月5日に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしのえにち)らが派遣されて始まりました。

とにかく命を賭けて出た危険な旅だけに、途中で失敗したものや、遭難したケースだけでなく、非常に興味深い出来事も起きております。

今回は第1回から第20回までの全てをスッキリまとめてみました。

早速、見てまいりましょう。

 


飛鳥に始まり平安に廃止される

遣唐使は飛鳥~平安時代の日本から、唐(618~907年に存在していた中国の王朝)へ派遣されていた使節団のことです。

第一回は舒明天皇二年(630年)で飛鳥時代。

最後は寛平六年(894年)の平安時代でした。

遣唐使が何回派遣されたのかについては、出港せずに終わった回や、唐からの使者を送った場合を含めるか否かなどにより、若干のズレがあります。

そのため最大で20回、最小で12回と考えられています。任命自体は20回あったので、こちらで捉えておいた方がわかりやすいですね。

ざっと表にマトメておきましょう。

※受験生の方も覚える必要はないと思いますが、イメージしやすくなるでしょう

時代出発年帰国年主な人物・関連事項

1630年632年犬上御田鍬(大使)・僧旻帰国
2653年654年粟田真人・2隻とも難破で生存者5人※後述
3654年655年高向玄理(押使)は唐で没する
4659年661年大使・坂合部石布は漂流先で殺される
5665年667年白村江の戦い(663年)初の遣唐使
6667年668年
7669年不明
8702年704年粟田真人、再び・唐と正式な国交回復目指す

9717年718年阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄昉ら唐に残る
10733年734年吉備真備・僧玄昉ら帰国
11746年停止
12752年754年長安で玄宗(楊貴妃LOVEな人)に拝謁
13759年761年唐は755年~の内乱「安史の乱」でズタボロ
14761年停止唐で「安史の乱」継続中
15762年停止唐の沈惟岳が帰国できず日本帰化で官位
16777年778年
17779年781年

18804年805年空海・最澄・橘逸勢 ※空海は20年滞在予定を早々と切り上げる(結果的に大正解)※橘逸勢は帰国後に承和の変で失脚
19838年839年
20894年廃止菅原道真の建議によって

上記のように20回も派遣されてるわけで、国としてもチカラを入れていたのがおわかりのように、遣唐使はかなりの大所帯でもありました。

時期によって多少のズレはあるものの、以下のようなメンバーがおり、多いときには651人という大規模な一団だったのです。

・主役である大使・副使

・記録係などの役人

・医師や船員などの乗組員

・大陸へ学びに行く学生や僧侶

なかなかイメージするのが難しい数字ですが、「小学校や中学校一つ分の外交団」と考えると、何となく規模感が伝わりますかね。

 


渡来人が務めていた通訳も担うようになった

遣唐使一行の中で、歴史の変遷が伺えるのは「訳語」という役職です。

読み方は「やくご」ではなく「おさ」です。

なんだか妙な感じですが、現代でいえば通訳のオシゴトですね。

もともと日本には、古墳時代あたりから渡来人がやってきて定住するようになり、彼らが通訳として外交に貢献していました。

しかし時代が下ると、大陸のほうでも言葉が変化していったため、日本に定住した渡来人系の人々は、その役割をこなしにくくなっていきます。

そのため渡来人の末裔ではなく、遣隋使・遣唐使の経験者が務めるようになりました。

「言葉は生き物」とよく言われますが、まさにそれが感じられるような出来事ですね。

さて、次は航路の話です。

現代の地名で表記していきますので、地図を見ながら確認するのも一興ですよ。

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