こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【遣唐使】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
航路は主に3つ いずれも危険に変わりなし
まずは、国内を大阪湾~瀬戸内海~博多湾まで船で進みます。
ここまでは比較的簡単にイメージできますよね。
問題はこの先。
時代によってルートが異なっていました。
遣唐使が始まってしばらくは、壱岐・対馬経由で朝鮮半島の西海岸沿いを進み、渤海湾から山東半島に向かうルートをとっていたようです。
上記の画像で言いますと、一番上の黒いラインの「北路(630-665)」ですね。
しかし、663年の白村江の戦い以降、このルートの途上にある新羅との国交が途絶えたために、ここを通ることができなくなってしまいました。
そのため、新たに九州南端から種子島~屋久島~奄美大島~徳之島~沖縄~久米島~石垣島~東シナ海を渡り、揚子江を目指すルートがとられるようになります。
同じく、上記の画像ですと、赤いライン「南島路(702-752)」になります。
このルートは唐にも知られていたようで、鑑真も同じ航路で来日したのだそうです。
ただ……鑑真が来日まで六回もかかっていることを考えると、他にもこのルートで大きな病気や怪我に見舞われた人が少なからずいたのでしょうね。
さらに時代が進むと現在の福岡県~佐賀県~長崎県と進み、五島列島付近から東シナ海を横断して揚子江岸へ、という「南路(大洋路とも 773-838)」が採用されるようになりました。
生存者241人中たった5人の第二次遣唐使
遣唐使の役割が命がけだったことは皆さん歴史の授業でもご存知でしょう。
往路・復路を問わず難破し、諸々の苦難に遭ったことは著名です。空海と最澄が渡航したときも4隻中2隻がたどり着けませんでした。
途中の船酔いや病気も悩みの一つだったようです。
重病になった場合、唐に置き去りにされることもあったとか。ひでえ……とも思えますが、当時の状況や他の人達も命がけであることを考えると、「そうせざるを得なかった」というのが実情でしょうか。
この手の話だと、やはり有名なのは阿倍仲麻呂の話でしょう。
現地に渡った後、詩人・李白ともお友達になるほどで、天才的な頭脳の持ち主だったとされています。
※以下は阿倍仲麻呂の関連記事となります
彼の場合、帰国は出来なかったにせよ、才覚もありましたし、唐に戻って生涯仕えることができたので、まだいいほうだったのかもしれません。
他にインパクトの強い話だと、第二回遣唐使船の遭難がなかなか辛いです。
このときは往路で二隻のうち一隻が遭難し、生き残ったのは241人中たった5人という惨事が起きています。
その5人は、流れ着いた先の無人島で竹を切っていかだを作り、日本に戻ってきたのだそうで。豪運もさることながら、そんな目に遭ったのにいかだで戻ろうとしたその根性がスゴイですね。
時代が進むと、大津浦から五島列島に進んだ後、風の良い日を選んで一気に東シナ海を渡るというルートが使われるようになったのは前述の通り(「南路(大洋路とも 773-838)」)。
・より博打に近いルートを選ばざるを得なかった
・そうしてでも大陸の知識を求めた
こうした姿勢からして、当時の国交がいかに重要か、うかがえますね。
※続きは【次のページへ】をclick!