明治・大正・昭和

田畑政治の生涯 いだてんもう一人の主役とは?【東京五輪前に辞任】

大河ドラマの『いだてん』ダブル主役の一人・田畑政治(たばたまさじ)。

彼は、大正から昭和にかけて活躍した新聞記者であり、水泳界の指導者でもありました。

NHKの公式会見でその名が発表されたとき、正直なところ、多くの方が
『えっ、誰それ???』
となったことでしょう。

田畑政治は、井伊直虎以上に知名度が低い。
Wikipediaの記述にしても、おそらく大河ドラマの主人公史上、最も簡潔な経歴しか記されておりません。

それだけに余計に興味をそそられる人物でもあるわけで……一体どんな御方だったのか?
生涯に迫ってみたいと思います。

【TOP画像】
『田畑政治 展』2019年12月29日まで開催中(浜松市)

 


大正〜昭和の新聞記者にして水泳指導者

田畑政治は明治31年(1898年)12月1日、静岡県浜松市で生まれました。

実家は造り酒屋。
浜松一のお金持ちとされるほど、財産があったとか。

浜名湾を目にして育った田畑少年は、水泳に心惹かれるようになります。

祖父や父が若くして肺結果で亡くなっており、夭折するのではないかという恐れもあったようで、水泳で心身を鍛え、長生きしようと願ったことでしょう。
占い師にすら長生きはできないと言われたほど。

しかし、彼自身は長寿を保っております。

小学校に入った田畑は、「浜名湾遊泳協会」前身のひとつ「遠州学友会水泳部」に所属するようになります。

そこは彼がまだ幼児であった明治末期から、水泳を志す若者や指導者が集い、浜名湾で泳ぎを競い合う場所。
上京し浜名湾を離れても、心の中には常にあの風景と水泳が残り続けたというわけです。

田畑は、同時に学業でも成績優秀な若者でした。
東京帝国大学を卒業し、大正13年(1924年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社、編集局政治部に所属します。

当時、新聞社に就職するのはエリートというよりも、好奇心旺盛でちょっと変わった道でした。
田畑は記者として、二・二六事件などの取材も精力的にこなし、政治家・鳩山一郎から大層気に入られたとか。

水泳競技の援助金を引き出す際、この人脈が生かされたそうで、こうした幅広い人脈は後にも役立つことになります。

その後、政治経済部長等を歴任し、昭和24年(1949年)、常務に就任しました。

ここまで読んで、
『五輪とどう関係あるのか?』
と突っ込まれた方もおられるでしょう。

彼にはもうひとつの顔があります。
それは水泳指導者であり、そしてオリンピックを率いた顔です。

 


戦前五輪への挑戦:ロサンゼルス、ベルリン

少し時間を逆戻り。
浜名湾を存分に泳いできた田畑少年は、競技者としても優秀でした。

が、旧浜松中学在学時、病気もあってドクターストップがかかります。このときから指導者として水泳で力を発揮したいと思うようになったのです。

大正5年(1916年)8月には、浜名で泳ぐ水泳部を統合し、「浜名湾遊泳協会」を組織。
帝大に進学し、朝日新聞に就職してからも、浜名に戻っては水泳指導をすることがありました。

その功績が認められ、日本水泳の指導トップに立ちます。

昭和4年(1929年)には、大日本水上競技連盟の事務理事に就任。
昭和5年(1930年)になると、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)の専務理事の役に就きます。

水泳監督としてのセンスは、申し分ないものでした。

日本は、金栗四三や三島弥彦が参加した明治45年(1912年)のストックホルムオリンピック以来、近代オリンピックに注力してきました。
ただし、競技は限られていました。

そこで田畑は、昭和7年(1932年)開催のロサンゼルス大会に、日本人競泳選手団を送り込むことを目標としたのです。

ロサンゼルス五輪祈念コロシアム/photo by upeslases wikipediaより引用

大会準備につとめ、水泳総監督に就任。
選手団団長ともなりました。

その結果は?

【全体のメダル】
金:7
銀:7
銅:4

【うち水泳のメダル】
金:5
銀:5
銅:2

この好結果は、アメリカの日系人にも勇気を与えました。
ここで考えていただきたい点があります。

田畑の泳いでいた場所は、プールではなく、浜名湾です。
当時の日本では、プールではなく自然の湖、海、河川で泳ぐことがほとんど。
西洋流の水泳法すら、充分に学ばれておりませんでした。

そこから、金メダル獲得まで駆けつけたのですから、その指導の素晴らしさがわかります。

田畑は食事のことまで指導しました。
そして「動物性タンパク質が必要だ!」と考えた彼のもとで、ちょっと恐ろしいこともおきます。

当時は食肉の確保が今より難しかったのか、ペットとして手軽な犬か猫にしようという恐ろしい結論に至ったのです。

そんな話を大河でやるのか?
とゾッとした方、大丈夫です。これは失敗でした。

犬は飼い主のガードが堅いからと狙いを定めた猫。しかし猫は素早く逃げ回るため、失敗に終わったのです。
にしても、こんなことまでするほど当時の水泳は手探りだったのですね。

次は、昭和11年(1936年)ベルリン五輪です。

1936年ベルリン五輪の様子/wikipediaより引用

ナチス政権下のベルリン五輪だけに『いだてん』でどんな扱いになるのか?

ちなみにその様子は映画『アンブロークン』にも登場しております。

 

ナチス政権下だけに、黒人やユダヤ系への差別的な態度が露骨。
長い五輪の歴史でも、史上屈指の暗黒さと言えるでしょう。

ただし、日本勢はこの五輪でも好調で。

【全体のメダル】
金:6
銀:4
銅:8

【うち水泳のメダル】
金:4
銀:2
銅:5

この大会で、社会現象となるほど活躍したのが前畑秀子でした。

前畑秀子/wikipediaより引用

200メートル平泳ぎに出場した前畑は、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルと接戦を繰り広げ、見事に金メダルを獲得。
実況するNHKアナウンサー河西三省が24回も繰り返した
「前畑がんばれ!」
とあわせて、伝説となったのでした。

 


戦中の苦節と戦後の復活

ベルリンの次は【1940年東京オリンピック】となるはずでした。

昭和14年(1939年)には、田畑が大日本水泳連盟理事長に就任。
もしも実現していたらば、確実に関わっていたはずです。

が、日本は第二次世界大戦に向けて突き進み、田畑だけでなく嘉納治五郎も招致に尽力した同大会は、水泡と帰してしまいます。
それどころではなく、ありとあらゆるスポーツが禁止されてしまうのです。

1940年東京オリンピックポスター/wikipediaより引用

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)
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多くの貴重な命も、失われました。
田畑がロサンゼルス大会で、金メダル獲得に感激した西竹一も、硫黄島でその命を散らしました。

西竹一(バロン西)
92年前に日本人初の五輪馬術メダリストとなった西竹一(バロン西)硫黄島に散った悲劇

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日本はどん底まで落ち込み、人々は飢えに苦しみ、スポーツどころではありません。
世界各国に敵対感情があるような状態です。

それでも敗戦後、国が立ち上がるにつれ、人々はあの逃した夢を追い始めます。

東京でのオリンピック開催です。

敗戦の翌年、昭和21年(1946年)、田畑は日本体育協会常務理事に就任しました。

続けて昭和23年(1948年)には、日本水泳連盟会長とJOC総務理事就任。
このときは、朝日新聞東京本社代表取締役でもありました。昭和28年(1952年)の退社まで、二足の草鞋を履くことになります。

さらに昭和26年(1951年)、日本体育協会の専務理事に就任。
戦争から立ち上がり、スポーツへ気炎を燃やす中、田畑は、その先頭にいたのです。

 

ヘルシンキ五輪で日本五輪復帰

おそらく『いだてん』で田畑最大の見せ場となるのが戦後の東京オリンピック誘致でしょう。

これは長い道のりでした。
なんせ日本はオリンピック参加すら断られてきたのです。

昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックの開催地は、かつての敵国イギリスです。
いくら政治とスポーツは別といっても、日本への反発は当然あります。
厳しい国内事情の中、鍛え上げてきた選手たちも断念するほかありませんでした。

しかし我慢のならない田畑は、日本選手権の決勝を五輪にぶつけ、日本水泳選手団の実力をアピールすることを忘れません。

特に悔しがったのが、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進です。
世界記録すら樹立しましたが、日本は国際水泳連盟(FINA)から弾かれています。

その記録が世界で認められることはなかったのです。

古橋廣之進/wikipediaより引用

もし古橋がロンドンに参戦できていたら……。
指導者としての悔しさは募るばかり。

翌昭和24年(1949年)、ロサンゼルスで開始された全米水泳選手権大会に、マッカーサーの許可を得て遠征。
まだまだ日本への風当たりが厳しく、ホテル宿泊を拒まれるばかりか「ジャップ!」と唾棄されることもありました。

そんな彼らに日系人実業家フレッド・イサム・ワダは、宿を提供しました。
日系人にとって、日本人アスリートの活躍は心躍るもの。このワダとの関わりが、のちに生きてきます。

ワダの献身が選手の背中を後押ししたのでしょう。

同大会で日本人選手は活躍し、
「日本人、すごいねえ!」
という周囲の声にワダは心躍らせます。
日系人として苦しみ生きてきた彼にとって、殊のほか嬉しいものでした。

そしてこの年には、国際水泳連盟(FINA)復帰も叶います。
まさに、田畑の策と奮闘あってのことでした。

五輪以外では、活躍めざましい日本人選手。
彼らのためにも、何がなんでも五輪の舞台を取り戻すことこそ急務となりました。

その願いは、次の昭和27年(1952年)ヘルシンキ五輪でついに叶います。

ヘルシンキ五輪記念タワー/photo by Jonik wikipediaより引用

ただし、この大会で水泳陣は不振を極めました。

【全体のメダル】
金:1
銀:6
銅:2

【うち水泳のメダル】
金:0
銀:1
銅:0

あの「フジヤマのトビウオ」こと古橋すら、アメーバ赤痢に苦しんだのです。
選手村で治療のため寝込み、やっと出場しての8位。
おそらくや選手としての最盛期が既に過ぎていたということも影響していたでしょう。

しかし、この大会が田畑に新たな目標を芽生えさせたのでした。
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