青年期の織田信長イメージ

絵・富永商太

信長公記

元服・烏帽子・諱と通称|信長公記第3話

2019/01/17

『信長公記』首巻3節から、いよいよ織田信長本人がご登場――。

天文十五年(1546年)、父・織田信秀の居城・古渡城で元服をしました。

満12歳ですので、当時としては平均といえます。

ただし、この節「信長様が元服したのはこの年で、翌年初陣したよ」ということしか書かれていません。

それで終わらせるのもヒドイ話なので、ここでは「元服・烏帽子・諱と通称」についても確認して、モヤモヤしている知識をスッキリさせておきましょう。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

烏帽子は大人のマナーなり

「元服は、現代でいう成人式のこと」

このことはご存じの方も多いでしょう。

一般的に男子を指す場合が多く、江戸時代以降は女子の成人も「元服」と呼ぶことがあります。

とはいえ、大体の場合は武家男子の成人に関する儀式を「元服」といいますね。

元服では、様々なものを子供用から大人用に切り替えます。

まずひとつは髪型。

元服するときに、それまでの子供の髪型から大人の髷(まげ)に整え、烏帽子(あるいは冠)を被るようになります。

当時の常識では頭頂部を隠すのがマナーなので「マナーを守らなければならない歳になった=大人になった」ということです。

わかりやすいのが源義経の肖像画ですかね。

源義経/wikipediaより引用

あるいは武田信玄とか。

武田信玄の肖像画(勝頼の遺品から高野山持明院へ寄進)/wikipediaより引用

肖像画って大体烏帽子をかぶっていると思うのですが、実はここに改革を起こしたのは信長では?という話があります。

ご覧ください。

織田信長/wikipediaより引用

烏帽子が無いですよね。

このパターンは信長が最初ではないか、と本郷和人教授も御著書『戦国武将の選択』で記されております。

とりあえず戦国時代の武家の場合は、あらたまった儀式以外の場で烏帽子を被ることはあまりなかったようです。

 


自ら「烏帽子親」となったケースは多い

元服の儀式において、元服する本人に烏帽子を被せる人を「烏帽子親」といいます。

成人する人の親戚や、家臣の中でも重要な立場にある人に任されることが多いですね。

実親のケースもありますが、基本的には成人後の後ろ盾になるような人が選ばれました。

【信長の烏帽子親が誰だったのか】

についてはよくわかりませんでしたスイマセン。

長じた後、信長が烏帽子親になった戦国武将はたくさんいるんですけど……。

例えば長宗我部元親の息子・長宗我部信親が、信長を烏帽子親に頼んだ敬意は興味深いものがあります。

恐れ入りますが、その詳細については長宗我部元親の人物伝よりご覧ください。

長宗我部元親
土佐の戦国大名・長宗我部元親の生涯~四国統一を成し遂げながら失意の中で死す

続きを見る

 

諱(いみな)をみだりに呼ぶのは不吉で失礼

幼名を改め、大人の名前になるのも元服後のことです。

例えば信長の場合、この日まで「吉法師」と呼ばれていたのが「信長」と名乗るようになりました。

若き日の織田信長/絵・富永商太

また、当時の社会通念として「本名(諱・いみな)をみだりに呼ぶのは不吉で失礼」にあたるため、元服時に日常で使う名前=通称も決めます。

信長の通称は「三郎」です。

生まれ順が三男だから、というのもありますが、これは父・信秀と同じ通称です。

「信」の字とともに父と同じ通称を使うことによって、正式な跡取り息子であることを示す意味があります。

このため、元服以降しばらく、信長の名を「織田三郎信長」と表記していることが多くなります。

欧米圏の名前でいうミドルネームみたいな語順になりますが、通称の場合はむしろファーストネームと同じくらい重要なので、その違いを覚えておくと便利かもしれません。

 

上総介や右大将……通称は社会的立場で変わる

また、通称については、本人の社会的な立場で変わります。

特に戦国時代の場合、官職を自称することも多いので、コロコロ変わりました。

江戸時代の武士も、出世や転封などでしょっちゅう変わりますね。

信長の場合は、元服時に決めた「三郎」の他、後々自称するようになった「上総介(かずさのすけ)」、右近衛大将に任官されて以降の「右大将(うだいしょう)」などがあります。

特に手紙や記録の上では「右大将」「右府」と書かれることが多いのですが、時期や時代によって信長を指す場合もあれば、全く別の人物を指すこともあるのがややこしいところ。

前後の文章や日付からだいたいは判断できますが……。

一般書や歴史小説・映像作品では、わかりやすさを優先して本名を使うことが多くなっていますよね。

直に書状や古文書を読むのでもなければ、まぁ、大きな問題にもなりませんし。

長々と書いてきましたが、まとめると以下の通り。

「信長は、現在の小学六年生くらいの歳で、大人として扱われるようになった」

 


初陣は意外と地味?

翌年=天文十六年(1547年)の初陣については、ほんの少ししか触れていません。

「今川軍との小競り合いだった」

天文十一年(1542年)第一次小豆坂の戦い以降、信秀は今川軍との戦いを繰り返していたので、そのうちのどれかでしょう。

父の居城での元服、そして父の目下最大の的である今川軍との戦で初陣を果たしたことは、

「コイツが跡継ぎだ!」

と家中に広く知らしめる意味もあったはず。

ただし、少年時代の信長は、現在でも知られている通り、決して常識的ではなく……その話はまた後の節で出てくるので、そのとき改めて。

次の第4話は👉️加納口の戦い(井ノ口の戦い)は織田家vs斎藤家|信長公記4話

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

織田信秀
織田信秀(信長の父)の生涯|軍事以上に経済も重視した手腕巧みな戦国大名

続きを見る

柴田勝家の肖像画
柴田勝家の生涯|織田家を支えた猛将「鬼柴田」はなぜ秀吉に敗れたか

続きを見る

丹羽長秀
丹羽長秀の生涯|織田家に欠かせない重臣は「米五郎左」と呼ばれ安土城も普請

続きを見る

参考文献

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-信長公記

目次