「源義経の人生に大きく影響を与えた人は?」
そう聞かれたら、誰を思い浮かべます?
兄の源頼朝か、あるいは武蔵坊弁慶などの家来たちと答える方が多いかもしれません。
しかし今回注目したいのは、文治3年(1187年)10月29日に亡くなった藤原秀衡です。
現代では「平泉のミイラの一人」としても知られている秀衡は、頼朝たちに負けず劣らず、義経の生涯かつその最期にも大きく影響しました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では田中泯さんが演じた、この秀衡とは、存命中どんな人物だったのか。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
さっそく見て参りましょう。
奥州藤原氏
藤原秀衡本人の話を始める前に、彼の出自である奥州藤原氏について軽く触れておきましょう。
まず、奥州藤原氏の始まりは?
というと“古代あるある”で、明確に初代だと言える人物がハッキリしていません。
言い伝えでは、藤原北家秀郷流・藤原経清の流れを汲むとされ、経清は前九年の役に登場。
安倍氏側について敗北し、源頼義に処刑されています。
その方法が鋸挽き(のこぎりびき)でした。
読んで字の如く、非常に残虐な処刑法――戦国ファンの方でしたら、織田 信長を射殺しようとした杉谷善住坊でご存知だったかもしれません。
※以下は杉谷善住坊の関連記事となります
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信長を襲った刺客の処刑は恐怖の鋸挽き|信長公記第101話
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なぜ経清がそんな残忍な殺され方だったのかというと、財力などを背景にした作戦で源頼義を翻弄し、大苦戦させたからだと考えられています。
彼等の子孫である藤原秀衡や源義経・源頼朝兄弟がこの件をどのように考えていたのかはわかりませんが、見ようによっては奥州藤原氏と河内源氏の因縁は浅からぬものかもしれません。
奥州藤原氏当主の大きな流れとしては
藤原清衡
│
藤原基衡
│
藤原秀衡
│
藤原泰衡
上記の4名が注目されがちですね。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
では秀衡当人にスポットを当てて参りましょう。
押領使を継承した藤原秀衡(血液型はAB)
残念ながら藤原秀衡の幼少期や青年期のことはよくわかっていません。
源平~鎌倉時代の地方ですから仕方ないのですが、生年はおろか生母についても諸説あり、なぜか彼女の血液型がBかABだっただろうという推測だけはあります。
というのも、学術調査によって、父の藤原基衡がA型、藤原秀衡がAB型だったことが判明していて、その組み合わせからすると母はBかABになるという法則ですね。
現代の日本はA・O型が多く、B型が若干少なめで、AB型が少数派……という構成ですが、平安時代も似たような感じだったのかもしれません。
そんな秀衡が家を継いだのは、保元二年(1157年)のこと。
父・基衡が亡くなったためとされていて、特に家中での跡目争い等もなく、順当な相続だったと思われます。
出羽・陸奥両国の【押領使】も継承しました。
押領使とは、軍事・警察の権限を司る官職。
この時点で、秀衡が動員できる兵力は17万騎ほどあったとまでいわれていますが、当時の史料は誇張も多く、まずそこまでの兵力はないでしょう。
ただし、後述する通り、奥州は名馬や砂金の産地でもありましたので、それらが軍資金に投じられていれば相当な戦力にはなったはず。
秀衡の立場を現代に例えるとすれば、(少々無理やりですが)陸上自衛隊の北部方面総監で、実家も超お金持ち、といった感じでしょうか。
朝廷との関係は軽視せず
この頃、都では【保元の乱】と【平治の乱】を経て、平家が全盛期を迎えていました。
中央での動乱を噂程度には聞いていたでしょうが、積極的には関わらず、物理的にも政治的にも遠かった奥州は大きな影響は受けずに済んでいます。
人口と財力、そして軍事力もある。
ゆえに奥州のことを「独立した勢力」と表現する人も少なくありません。
しかし、上記の通り、秀衡は朝廷から「押領使」の官職を得ています。朝廷の官職を受けるということは、彼の権力の裏付けが朝廷であるということにもなります。
また、陸奥や出羽の国司の力も、まったく無かったわけではありません。
朝廷から見た場合、あくまで秀衡に持たせたのは【軍事権】であって、【政治権】ではなかったのです。
藤原秀衡本人も、それは重々承知していたと思われます。
この時代の平泉は、当時の日本では大都市でしたが、少なくとも表向きは栄華に驕ることなく、上方への献金や贈り物、寺社への寄進を行っています。
要は中央を意識していたんですね。

えさし藤原の郷で再現された奥州藤原氏の鎧
そのもう一つの証拠が正室の存在でしょう。
彼の正室は、当時の院近臣・藤原基成の娘でした。
基成は以前、陸奥守や鎮守府将軍を務めた人物で、秀衡の父・基衡時代からの付き合いです。
一度は上方に帰っていたのですが、平治の乱の中心人物である藤原信頼が基成の弟だったため、連座によって陸奥に流されてしまいます。
良くも悪くも、奥州に縁がある人といえますね。
平泉の中尊寺などについては、きらびやかなイメージもおありかと思います。
それも秀衡たちが上方との接点を積極的に持ったことで、都の文化がもたされたから。
富ある場所には人が集まるようになり、物の流れも盛んに……つまりは商人が定期的に行き交うようになり、さらに富が生まれていきました。
のちに鞍馬寺を出奔した源義経が、遠路はるばる平泉へやってきたのも、それ以前から人の流れが盛んだったことが理由の一つでしょう。
義経を預かり歴史が動いた
中央政界でも、藤原秀衡の存在感は意識されていました。
嘉応二年(1170年)5月、後白河上皇は秀衡に従五位下・鎮守府将軍の官位を与えています。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用
鎮守府将軍とは、まんま国を守るという役職。元から押領使だった秀衡が受ける官職としては、違和感はありません。
公家の中には、秀衡を「都に来たこともない田舎の蛮族」とみなしている者もいましたが……。
秀衡の方でもそれは感じ取っていたらしく、献金や贈り物をしたり、官職をおとなしく受け取りはしたものの、それ以上の行動はしていません。
例外は寺社への献金でしょうか。承安三年(1173年)に高野山へかなりの寄進をしています。
五大多宝塔ならびに皆金色釈迦如来像の開眼供養のためであり、高野山側でも非常に感謝しており、願文の中で秀衡をベタ褒めしています。
そんな感じで、物理的にも精神的にも上方とは「付かず離れず」との関係を保っていた秀衡。
うっすらと事情が変わってくるのは、若き源義経が庇護を求めてきてからです。
当時は源頼朝も流刑のまっただ中。
秀衡にしても
「上方で戦が起き、源氏一門は罪人として扱われている」
ということは知っていたはずですから、庇護を求められたときはいくらか迷ったでしょう。
最終的になぜ、求めに応じることを決めたのか……それは本人にしかわかりません。
平家側から差し出すように求められればそうしたかもしれませんし、「源氏の御曹司を名乗る偽者だったとしても、大した危険はない」と判断した可能性もあります。
いずれにせよ秀衡が義経を助けたことによって、最終的に平家が滅んで鎌倉幕府の成立にまでかかわってくるのですから、彼の決断は歴史を動かしたといっても過言ではありません。
兄の挙兵に応じようとする義経に対して
治承四年(1180年)、源頼朝が挙兵。
義経がそれを知り、馳せ参じたいと望んだとき、当初、藤原秀衡は反対したといわれています。
その理由もこれまた不明です。
数年過ごす間に情が湧いたのか、あるいは他の思惑があったのか……。
最終的には佐藤継信・佐藤忠信兄弟や馬を与えて送り出しているあたり、前者の可能性が少々高いでしょうか。
秀衡には娘がいたという説もあるので、義経を婿に迎えて、息子たちの力になってほしいと思っていたのかもしれません。

源義経/wikipediaより引用
一方で、平家側でも養和元年(1181年)、秀衡に対して働きかけました。従五位上・陸奥守に叙任させたのです。
平家の家督を継いだ平宗盛の推挙によるもので、平清盛が亡くなって4ヶ月ほど経った頃のことでした。
実はそれに先んじて、都では
「後白河法皇が、奥州の秀衡に頼朝を討つよう院宣を出したらしい」
という噂が立っています。
いつの時代も京童は世情に敏感だといえど、当時の情報伝達速度で、遠く離れた奥州にいる人物の名が噂になったというのは、よくよく考えるとスゴイ話です。
公家たちの反応は、相変わらず冷ややかなものでしたが、それに対して秀衡はどうしたかというと……なんと、何もしていません。
宗盛のアテは見事に外れたことになります。
秀衡の側から見ると、平家に加担しても、源氏に協力しても、正直うまみがほとんどないですもんね。
そもそも兵を挙げるつもりがあるのならば、義経が兄の元へ行きたがった際、もっと軍事行動らしいことをしていたでしょう。
おそらく秀衡にとっては平泉の安全と維持が最優先であり、それが少しでも脅かされるようなことはしたくなかったのではないかと思われます。
鎌倉からの挑発には乗らず
東北で富と兵を併せ持つ藤原秀衡は、外から見れば煙たい存在でもありました。
特に物理的に(多少)近い鎌倉にいた源頼朝からは、たびたび圧力をかけられています。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
有名なのが、平家が滅んだ後の文治二年(1186年)に
「奥州から馬や金を都に送るときは、うちが仲介しよう」
と頼朝が言い放ったことでしょうか。
以前から秀衡は直接都にモノや金を送っていたのですから、わざわざ頼朝に仲介を頼む必要はありません。
頼朝もそれは当然知っていて言っています。つまり、
「奥州の蛮族ごときが直接都とやり取りするなど言語道断。お前は俺の下なのだ」
と暗に言っているわけです。
プライドの高い人であれば、この一件だけでブチ切れてもおかしくありません。
この時代の人は、現代人からすると信じられないくらい些細なことで武器を持ち出しますので……。
「悪口」は立派な(?)戦術でもありますので、子供のケンカともいい切れないのですが。
秀衡も、それは見透かしていました。
直接の対立は避け、このときは頼朝の言う通りに馬と金を鎌倉へ届けています。
しかし、頼朝は何が何でも奥州藤原氏を潰すつもりですから、その程度では引っ込みません。
そして義経と頼朝が決別し、義経が再び奥州を訪れた際、秀衡は覚悟を決めます。
義経をもう一度匿ったのです。
秀衡の弁慶の泣き所は跡目候補
頼朝は、当然、藤原秀衡を疑いました。
その他の容疑(という名の言いがかり)を、朝廷を通して秀衡に問いただしています。
秀衡はひとつひとつに丁寧な回答をしましたが、これまた当然のように頼朝も納得しません。
なんとしてでも秀衡を潰すべく、後白河法皇に対して「秀衡が義経をかくまい、反逆を企てている」と訴えました。
後白河法皇はなかなかこれを受け入れず、院宣を出そうとはしません。
法皇からみれば、
「秀衡は今まで膨大な献金や献上物を差し出してきている。
むしろ鎌倉から動かず、力を蓄えつつある頼朝の動きのほうが懸念材料だ。
秀衡にはなんとかこの状況を乗り切って、頼朝を牽制してほしい」
といったところ。
そんなわけで、後白河法皇からすると共倒れになってくれるのがベストなのです。
一方で、秀衡にしても、別の懸念がありました。
息子たちの仲が悪かったのです。
秀衡は子宝に恵まれた人で、6人の息子がいたとされています。
問題になったのは、上の二人。
地元出身の側室生まれだけど、出来の良い長男・藤原国衡
上方出身の正室生まれで、出来も悪いというほどではない次男・藤原泰衡
です。
いかにも対立しそうな構図ですね。
地元では「奥州出身の女性を母に持っていて、武勇にも優れた国衡様に次代を担っていただきたい」という声がかなりあったようです。
そのまま家中分裂の危険を残しておくと、いずれかに頼朝が介入し、そこから奥州藤原氏を崩される恐れもありました。
義経殿を主君とし頼朝に立ち向かうように
藤原秀衡は、苦肉の策として、自分の妻を国衡に娶らせ、国衡と泰衡を義理の親子にしてしまいました。
「後家が息子に嫁ぐ」という慣習を利用したものですが、生前にそれをやらねばならない事情と考えると、当時の奥州藤原氏内部がいかにヤバかったかがわかります。
当時、秀衡は”今際の際”というような状況だったようですが、最後の力を振り絞って、国衡と泰衡に固く命じました。
「義経殿を主君とし、結束して頼朝に立ち向かうように」
これは私見であり勝手な推測ですが、秀衡は
「なぜ義経を中心として結束しなければならないのか」
について、その理由や胸中のすべてを語らなかったのではないかと思います。
おそらく、秀衡は頼朝の目的が「何が何でも奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉の勢力を拡大すること」だと気付いていたでしょう。
義経を差し出したとしても、奥州藤原氏の存続には大して良い影響がないと見抜いていたはずです。
ならば義経を旗頭とし、一定以上の意地を見せ、朝廷の仲介を引き出すことに一縷の望みを託すべし……と考えていたのではないでしょうか。
この遺言は最終的に破られ、息子の藤原泰衡は義経の首をもって頼朝の許しを得ようとし、ものの見事に失敗します。
伝わっている泰衡の言動からするに、頼朝の狙いを全く見抜けていなかったようです。
となると、やはり秀衡が深い部分を語らないまま亡くなってしまった……という可能性が高いのではないかと。
まぁ、後世から見れば、なんとでも言える話でスミマセン。
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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか






