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【藤原秀衡】
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義経を預かり歴史が動いた
中央政界でも、藤原秀衡の存在感は意識されていました。
嘉応二年(1170年)5月、後白河上皇は秀衡に従五位下・鎮守府将軍の官位を与えています。
鎮守府将軍とは、まんま国を守るという役職。元から押領使だった秀衡が受ける官職としては、違和感はありません。
公家の中には、秀衡を「都に来たこともない田舎の蛮族」とみなしている者もいましたが……。
秀衡の方でもそれは感じ取っていたらしく、献金や贈り物をしたり、官職をおとなしく受け取りはしたものの、それ以上の行動はしていません。
例外は寺社への献金でしょうか。承安三年(1173年)に高野山へかなりの寄進をしています。
五大多宝塔ならびに皆金色釈迦如来像の開眼供養のためであり、高野山側でも非常に感謝しており、願文の中で秀衡をベタ褒めしています。
そんな感じで、物理的にも精神的にも上方とは「付かず離れず」との関係を保っていた秀衡。
うっすらと事情が変わってくるのは、若き源義経が庇護を求めてきてからです。
当時は源頼朝も流刑のまっただ中。
秀衡にしても
「上方で戦が起き、源氏一門は罪人として扱われている」
ということは知っていたはずですから、庇護を求められたときはいくらか迷ったでしょう。
最終的になぜ、求めに応じることを決めたのか……それは本人にしかわかりません。
平家側から差し出すように求められればそうしたかもしれませんし、「源氏の御曹司を名乗る偽者だったとしても、大した危険はない」と判断した可能性もあります。
いずれにせよ秀衡が義経を助けたことによって、最終的に平家が滅んで鎌倉幕府の成立にまでかかわってくるのですから、彼の決断は歴史を動かしたといっても過言ではありません。
兄の挙兵に応じようとする義経に対して
治承四年(1180年)、源頼朝が挙兵。
義経がそれを知り、馳せ参じたいと望んだとき、当初、藤原秀衡は反対したといわれています。
その理由もこれまた不明です。
数年過ごす間に情が湧いたのか、あるいは他の思惑があったのか……。
最終的には佐藤継信・佐藤忠信兄弟や馬を与えて送り出しているあたり、前者の可能性が少々高いでしょうか。
秀衡には娘がいたという説もあるので、義経を婿に迎えて、息子たちの力になってほしいと思っていたのかもしれません。
一方で、平家側でも養和元年(1181年)、秀衡に対して働きかけました。従五位上・陸奥守に叙任させたのです。
平家の家督を継いだ平宗盛の推挙によるもので、平清盛が亡くなって4ヶ月ほど経った頃のことでした。
実はそれに先んじて、都では
「後白河法皇が、奥州の秀衡に頼朝を討つよう院宣を出したらしい」
という噂が立っています。
いつの時代も京童は世情に敏感だといえど、当時の情報伝達速度で、遠く離れた奥州にいる人物の名が噂になったというのは、よくよく考えるとスゴイ話です。
公家たちの反応は、相変わらず冷ややかなものでしたが、それに対して秀衡はどうしたかというと……なんと、何もしていません。
宗盛のアテは見事に外れたことになります。
秀衡の側から見ると、平家に加担しても、源氏に協力しても、正直うまみがほとんどないですもんね。
そもそも兵を挙げるつもりがあるのならば、義経が兄の元へ行きたがった際、もっと軍事行動らしいことをしていたでしょう。
おそらく秀衡にとっては平泉の安全と維持が最優先であり、それが少しでも脅かされるようなことはしたくなかったのではないかと思われます。
鎌倉からの挑発には乗らず
東北で富と兵を併せ持つ藤原秀衡は、外から見れば煙たい存在でもありました。
特に物理的に(多少)近い鎌倉にいた源頼朝からは、たびたび圧力をかけられています。
有名なのが、平家が滅んだ後の文治二年(1186年)に
「奥州から馬や金を都に送るときは、うちが仲介しよう」
と頼朝が言い放ったことでしょうか。
以前から秀衡は直接都にモノや金を送っていたのですから、わざわざ頼朝に仲介を頼む必要はありません。
頼朝もそれは当然知っていて言っています。つまり、
「奥州の蛮族ごときが直接都とやり取りするなど言語道断。お前は俺の下なのだ」
と暗に言っているわけです。
プライドの高い人であれば、この一件だけでブチ切れてもおかしくありません。
この時代の人は、現代人からすると信じられないくらい些細なことで武器を持ち出しますので……。
「悪口」は立派な(?)戦術でもありますので、子供のケンカともいい切れないのですが。
秀衡も、それは見透かしていました。
直接の対立は避け、このときは頼朝の言う通りに馬と金を鎌倉へ届けています。
しかし、頼朝は何が何でも奥州藤原氏を潰すつもりですから、その程度では引っ込みません。
そして義経と頼朝が決別し、義経が再び奥州を訪れた際、秀衡は覚悟を決めます。
義経をもう一度匿ったのです。
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