戦乱に明け暮れた日本国内を見事に天下統一した豊臣秀吉は、その後、海を越えて朝鮮に出兵しました。
唐入り、すなわち【文禄・慶長の役】です。
秀吉の目的は明の征服だったとされますが、一体どんな勝算があって大軍を派兵したのか。
明はおろか朝鮮半島に拠点すら無い状態で、なぜ急に攻め込んだりしたのか。
その動機については、後世の我々にとっても摩訶不思議。
しかし、最も困惑したのが、他ならぬ朝鮮と明だったかもしれません。
なぜなら、それまでの東洋秩序からすると、秀吉の行動はあまりに突飛で、異端な行動だったからです。
では明や朝鮮にとって、秀吉の派兵とはいかなるものだったのか?
文禄・慶長の役そのものについては以下の記事に譲り、
秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦へ突き進んだのか
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本稿では、逆の視点から同合戦を振り返ってみましょう。
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隣国へ攻め込むという特異な発想
大河ドラマ『麒麟がくる』の織田信長は「大きな国を作る」という目標に取り憑かれていました。
そもそもは斎藤道三が明智光秀に話したことで、光秀を通じて信長に伝えられます。
二人で地図を見ながら笑いあい、どのくらい大きな国にするか?と語り合う場面があり、最終回でもその回想シーンが流されました。
また、Amazonプライムのドラマ『MAGI』では、秀吉が南蛮の船乗りから西欧諸国の海洋進出について聞いたあと、ニヤリと笑う場面がありました。
二つの作品で比較すると浮かんでくることがあります。
「海を渡り、隣国に攻め入る」という発想が、日本では非常に異質であったということです。
『麒麟がくる』の織田信長は「大きな国」という言葉を国内の領土拡張と解釈。
しかし『MAGI』の豊臣秀吉は、西洋諸国が抱いていた海洋進出を、東洋の日本で応用することを思いついたという描き方でした。
前者は信長の発想であり、後者は西洋の発想を取り入れた秀吉の野望。
そうした特異点を示す場面と言えるでしょう。
鎖国ではなく海禁政策
【大航海時代】という世界史用語があります。
航海技術が発達し、イスラム勢力を避けたいポルトガルが、アフリカ周りの航路を見出そうとしたことが発端であり、欧州各国が海を通じて世界へ。
ご存知のように【大航海時代】とは、あくまでヨーロッパ目線の言葉です。
では東洋は当時どうだったのか?
この時代のポルトガル人が全く理解できない価値観を持っていたのが、中国大陸の明国でした。
この明には高い航海技術があり、例えば鄭和率いる大船団は、当時、世界最高峰の技術と規模を有していたのです。
それでも明は、海外への領土拡張を目指しませんでした。
初代皇帝の朱元璋以来、同国では【海禁政策】をとっていたからです。
前王朝の元国は、グローバル経済が強みですので、陸路も海路も解禁して広い地域で貿易を行っていた。その繁栄ぶりはマルコ・ポーロによってヨーロッパにも伝えられていました。
それを転換したのが、朱元璋の政策です。
農業を国の根幹とする反グローバリズムともいえる政策であり、その影響は日本にも及びます。
それまで自由闊達に行われていた貿易が、明代になると突如禁じられてしまい、その抜け道を模索した結果、多国籍の非合法貿易集団【倭寇】が発生したのです。
明では、永楽帝の時代に鄭和の大船団が派遣されています。
領土拡張が目的ではなく、【朝貢貿易】の促進に主眼が置かれていました。
【朝貢貿易】というと、頭を下げて中国に従うという屈辱的な誤解も生じやすいのですが、実際は中国側よりも、相手国の方が得をするシステムです。
ゆえに、中国側にとって不利益なことが起きれば、ペナルティとして「朝貢貿易の禁止措置」がとられることもある。
明が財政赤字になれば、朝貢貿易による支出をセーブすることも考える。
【中華思想】とは、中国側が周辺諸国に対して大盤振る舞いするシステムとも言えたのです。
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