安永8年(1779年)7月25日は松平武元(たけちか)の命日です。
大河ドラマ『べらぼう』で石坂浩二さんが演じていた、と言えば思い出される方も多いでしょう。
当初は偏屈そうな、いかにも老害武士のように描かれていながら、いざ徳川家基が不審死を遂げると田沼意次と手を取り合う――そして、その直後に暗殺されてしまう。
なんとも急展開な最期を迎えましたが、いったい史実ではどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ると、石坂浩二さん以外に演じられる役者はいないかもしれません。
『べらぼう』は十代将軍・徳川家治の時代から始まります。
家治にとって八代・徳川吉宗は偉大なる祖父であり、伝説的な名君でした。
松平武元は、その吉宗時代から、九代・徳川家重、十代・徳川家治時代まで三代にわたって仕え、伝説を築き上げた一人だったのです。
劇中では白く長い眉毛と、田沼意次への頑なな姿勢に目が行きがちでしたが、史実では幕閣の中でも常に一目置かれる特別な存在。
だからこそ、徳川家治は「西の丸の爺」と呼ぶほど崇敬したのであり、大河ドラマには第一作から数えて12回も出演されている石坂浩二さんしか演じられなかったとも思える。
そんな松平武元の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
親藩生まれの四男 大名となる
平安時代中期を舞台とした大河ドラマ『光る君へ』では、「藤原姓」の登場人物があまりに多すぎるというボヤキがみられました。
一方、江戸時代中期が舞台となる『べらぼう』は、幕閣に複数の松平姓が登場します。
先祖を辿ってゆくと徳川家康にたどり着くのが松平氏。
徳川政権が樹立してから、同族同士、互いに養子を融通しながら親藩として家を継続し、その中で優秀な藩主が幕閣に入って出世ルートを上り詰める――。
江戸幕府の政治はこうした過程で成立しており、田沼意次の周囲に松平氏が多いのは必然的な流れと言えました。

田沼意次/wikipediaより引用
松平武元も、そうした松平氏の出身にして幕政の頂点に上り詰めた典型例。
もともと武元は、常陸国府中藩の第3代藩主・松平頼明の四男として生まれました。
江戸時代というと、二男以下は世に出られないという印象もありますが、家の存続のため養嗣子が活用された時代でもある。
前述のとおり、常に幕府の中枢にいる松平氏は、子に恵まれぬ別の松平氏の養子となることも多く、松平武元もまた享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり、家督を相続しました。
その後、陸奥棚倉に移封され、五万四千石の大名へ。
なお、松平武元には、正徳3年(1713年)と享保4年(1719年)と、生年の記録が二説あります。
養嗣子として家督を相続する都合上、実際よりも歳上に偽装したことが推察できます。
吉宗に見出され
親藩である松平氏が江戸幕府の中心にいる。
しかし、松平という血筋だけで幕政の頂点に登れるほどは甘くない。
松平武元は、青年時代から才知に光るものがあったようで、元文4年(1739年)年に奏者番となると、延享元年(1744年)には寺社奉行を兼任することになりました。
このときの務めぶりに光るものがあったのか。
八代将軍・徳川吉宗の目に武元の存在が留まります。
延享二年(1745年)に吉宗が隠退を決めた時、特に招かれた一人に武元も含まれていたのです。

徳川吉宗/wikipediaより引用
吉宗の跡を継ぐ九代・徳川家重は言語が不明瞭であり、周囲との交流が難しく、資質に疑念が抱かれていました。
吉宗としてはそんな家重の代であっても、輔弼の臣を選べば滞りなく政治が行われると信じたかったのでしょう。
こうして吉宗のお墨付きを得た武元は、延享3年(1746年)に西丸老中に任じられ、上野館林に再度封されます。
延享4年(1747年)には老中となり、明和元年(1764年)には老中首座へ。
明和6年(1766年)、6万1千石に加増されると、老中首座はその死まで15年間務めることとなりました。
幕閣入りを果たした田沼意次からすれば、二十歳ほど年上の松平武元は頭のあがらぬ大物です。
裏を返せば、彼の覚えさえめでたくあれば、出世の糸口が見出せる。
松平武元の存命中、田沼意次はその顔色をうかがい、尊重せねばなりませんでした。
『独眼竜政宗』で主演を務めた渡辺謙さんが扮する田沼意次がそうせねばならぬほど重大な役となれば、やはり石坂浩二さんでなければならないと思うところです。
「右近将監」に取り入ってこそ政治が動く
『べらぼう』序盤の幕政パートは、田沼意次が主役。
松平武元の役割は、意次にとって頭の上がらない上司であり、実際、劇中でも対応に苦心する様子が描かれました。
吉宗に才能を見出された青年時代と違い、田沼意次が仰ぎ見る松平武元は、保守的な人物像であるとされています。
松平武元はその官位から「右近将監」と呼ばれていました。
この「右近将監」の覚えがめでたくなることこそが、当時の政治を動かす重要ポイント。
江戸時代ともなると、大名や幕臣にとって官位はステータスシンボルです。
たかがシンボルなれど、これを引き上げたいと望む者はいて、そうしたときに早道だったのが「右近将監」こと松平武元に取り入ることでした。
こうした工作の一例として挙げられるのが、明和2年(1765年)、仙台藩主・伊達重村が目指した「少将」です。

伊達重村/wikipediaより引用
重村はそのステータスを得るため、以下の相手に贈賄工作を行っています。
・松平武元(老中首座)
・高岳(大奥筆頭老女)
・田沼意次(御側御用取次)
・田沼意誠(一橋徳川家家老、意次の弟)
何をするにせよ、松平武元への口利きは欠かせない代表事例と言えるでしょう。
松平武元は、いわば田沼意次の贈収賄仲間としての姿が見えてきます。
実際は清廉潔白なのかどうか
「金!金!金!と言うな!」
ドラマの中では田沼意次に向かってそう叱責していた松平武元ですが、実際は贈賄の対象筆頭とも言える位置にいる。
こうしてみてくると「おぬしもワルよのう」という時代劇定番のセリフが似合いそうな悪徳政治家に思えるかもしれません。
しかし、松平武元は「清廉潔白」であるという当時の人物評があります。
大奥に媚び諂わなかったからであるとか、田沼意次と比較すれば相対的によいのではないか、などと評されたのですね。
ただし、それは単なるイメージであり実際は清廉潔白というわけでもなかった、とも指摘されることもあります。そもそも当時の贈収賄はマナーの範囲であって、必要悪にすぎなかったという見方もできます。
現代の感覚ではどうにも掴みづらいのが実際のところでしょう。
松平武元は、安永8年(1779年)のその死まで、老中首座をつとめました。
家督は四男の松平武寛が継いでいます。
田沼意次にとって、これは頭の上から重石が取れたことでもあります。
松平武元のあと、相次いで老中たちが世を去り、やがて天明年間に突入すると、本格的な田沼意次の政治が始まってゆくのです。
みんなが読んでる関連記事
-

徳川家基は意次に謀殺された?18歳で謎の死を遂げた幻の11代将軍
続きを見る
-

『べらぼう』生田斗真が演じる徳川治済~漫画『大奥』で怪物と称された理由
続きを見る
-

史実の田沼意次はワイロ狂いの強欲男か 有能な改革者か? 真の評価を徹底考察
続きを見る
-

なぜ田沼意知(宮沢氷魚)は佐野政言に斬られたのか?史実から考察
続きを見る
-

田沼政治を引き継いだ田沼意致(意次の甥)実際何ができたのか?
続きを見る
【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon)
江上照彦『悪名の論理』(→amazon)
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
他





