大河ドラマ『べらぼう』で石坂浩二さんが演じる松平武元(たけちか)。
いかにも偏屈そうな頭の堅い老害武士のように描かれていますが、史実では一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ると、石坂浩二さん以外に演じられる役者はいないかもしれません。
『べらぼう』は十代将軍・徳川家治の時代から始まります。
家治にとって八代・徳川吉宗は偉大なる祖父であり、伝説的な名君でした。
松平武元は、その吉宗時代から、九代・徳川家重、十代・徳川家治時代まで三代にわたって仕え、伝説を築き上げた一人だったのです。
劇中では白く長い眉毛と、田沼意次への頑なな姿勢に目が行きがちですが、史実では幕閣の中でも常に一目置かれる特別な存在でした。
だからこそ、徳川家治は「西の丸の爺」と呼ぶほど崇敬したのであり、大河ドラマには第一作から数えて12回も出演されている石坂浩二さんしか演じられないとも思えてくる。
そんな松平武元の生涯を振り返ってみましょう。
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親藩生まれの四男 大名となる
平安時代中期を舞台とした大河ドラマ『光る君へ』では、「藤原姓」の登場人物があまりに多すぎるというボヤキがみられました。
一方、江戸時代中期が舞台となる『べらぼう』は、幕閣に複数の松平姓が登場します。
先祖を辿ってゆくと徳川家康にたどり着くのが松平氏。
徳川政権が樹立してから、同族同士、互いに養子を融通しながら親藩として家を継続し、その中で優秀な藩主が幕閣に入って出世ルートを上り詰める――。
江戸幕府の政治はこうした過程で成立しており、田沼意次の周囲に松平氏が多いのは必然的な流れと言えました。
松平武元も、そうした松平氏の出身にして幕政の頂点に上り詰めた典型例。
もともと武元は、常陸国府中藩の第3代藩主・松平頼明の四男として生まれました。
江戸時代というと、二男以下は世に出られないという印象もありますが、家の存続のため養嗣子が活用された時代でもある。
前述のとおり、常に幕府の中枢にいる松平氏は、子に恵まれぬ別の松平氏の養子となることも多く、松平武元もまた享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり、家督を相続しました。
その後、陸奥棚倉に移封され、五万四千石の大名へ。
なお、松平武元には、正徳3年(1713年)と享保4年(1719年)と、生年の記録が二説あります。
養嗣子として家督を相続する都合上、実際よりも歳上に偽装したことが推察できます。
吉宗に見出され
親藩である松平氏が江戸幕府の中心にいる。
しかし、松平という血筋だけで幕政の頂点に登れるほどは甘くない。
松平武元は、青年時代から才知に光るものがあったようで、元文4年(1739年)年に奏者番となると、延享元年(1744年)には寺社奉行を兼任することになりました。
このときの務めぶりに光るものがあったのか。
八代将軍・徳川吉宗の目に武元の存在が留まります。
延享二年(1745年)に吉宗が隠退を決めた時、特に招かれた一人に武元も含まれていたのです。
吉宗の跡を継ぐ九代・徳川家重は言語が不明瞭であり、周囲との交流が難しく、資質に疑念が抱かれていました。
吉宗としてはそんな家重の代であっても、輔弼の臣を選べば滞りなく政治が行われると信じたかったのでしょう。
こうして吉宗のお墨付きを得た武元は、延享3年(1746年)に西丸老中に任じられ、上野館林に再度封されます。
延享4年(1747年)には老中となり、明和元年(1764年)には老中首座へ。
明和6年(1766年)、6万1千石に加増されると、老中首座はその死まで15年間務めることとなりました。
幕閣入りを果たした田沼意次からすれば、二十歳ほど年上の松平武元は頭のあがらぬ大物です。
裏を返せば、彼の覚えさえめでたくあれば、出世の糸口が見出せる。
松平武元の存命中、田沼意次はその顔色をうかがい、尊重せねばなりませんでした。
『独眼竜政宗』で主演を務めた渡辺謙さんが扮する田沼意次がそうせねばならぬほど重大な役となれば、やはり石坂浩二さんでなければならないと思うところです。
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