2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』の主役である秀吉と秀長にとって最大の不幸は、子供や譜代の家臣に恵まれなかったことでしょう。
全く生まれなかったわけじゃない。
配下の者たちだって積極的にスカウトしてきた。
しかし、子沢山で三河武士を抱えていた家康と比べて、そのラインナップはあまりに脆弱であり、しかも数少ない血縁者にしてもなぜだか早逝したり不幸な最期を迎えてしまうのです。
豊臣秀長の跡継ぎでもあり、重要なポジションに置かれた次代の武将は、どのような人物だったのか。その生涯を振り返ってみましょう。
※本記事では「豊臣秀保」表記で統一します
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羽柴秀長の養子となった甥
豊臣秀保は天正七年(1579年)、三好吉房と妻・日秀尼(とも)の三男として生まれました。
日秀尼と書くと、なんだか名門武家の女性という感じもしますが、“とも”と記せば豊臣秀吉と豊臣秀長の姉であるとスンナリ入ってくるでしょうか。
彼女が秀保を産んだ当時はすでに46歳だったため「実子ではなく養子なのでは?」とも言われます。
現代でも、なかなかの高齢出産ですしね。もちろん物理的に絶対不可能というわけでもないでしょう。
おそらくそのまま両親の手で育てられていた秀保に運命の転機が訪れたのは天正十六年(1588年)のこと。
叔父である羽柴秀長の養子となりました。

豊臣秀長/wikipediaより引用
もともと秀長にも一男二女がいたのですが、男子が夭折してしまったため、甥を養子に迎えたのです。
同じく天正十六年(1588年)4月の後陽成天皇による聚楽第行幸の時点で「御虎侍従」と呼ばれている人物が秀保と思われます。
年齢的にはまだ幼名だったと考えられますので「御虎」がそうなのでしょう。勇ましい名前ですね。
天正十九年(1591年)1月、秀保は、秀長の娘・通称おみやと結婚し、婿養子となりました。
おみやは当時4~5歳ですので、物心ついたかどうかといった頃合い。
なぜ、そんな段階で結婚に至ったのか?というと、秀長が病みついていたためと思われます。
事実、この結婚の直後に秀長が亡くなり、その領地だった大和・紀伊は秀保へ与えられました。宗教勢力や在郷国衆たちの影響力が強いとされる地域を秀長以外の者に任せて大丈夫なのか……と不安は感じてしまいますね。
羽柴大和宰相
天正十九年(1591年)4月、豊臣秀保は正四位下の位を受けました。
そして9月には参議の官職を得て、ある呼び名を付けられます。
参議の異称である「宰相」をつけ「羽柴大和宰相」です。いささか大仰な雰囲気もありますが、天下人・秀吉を支えるためという意味もありますね。
秀吉も、そんな秀保をきちんとバックアップしようと考えていたのでしょう。
秀保の文書に朱印を捺すなどして、弟の跡継ぎとして秀保を庇護しました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
なんせ秀保はこの時点でまだ12歳ですので、実際の統治能力は期待できません。
清華家(公家のランク・摂関家の次にエラいとされた家柄)として認められていた秀長の跡を継いだため、一族内でも秀保は実兄の羽柴秀勝よりも格上とされていました。
ちなみに、豊臣家内での序列では羽柴秀次と徳川家康が同格で二番目であり、その次に秀保が続いています。
秀次も秀吉の甥であり、家康は秀吉の妹婿という扱いのためです。
身内の二番目が秀次、大名の筆頭が家康という見方の方が自然ですね。
豊臣政権の次世代として
豊臣秀保はそのまま順調に出世を重ね、文禄元年(1592年)1月には従三位・権中納言に昇格。
秀長と同じく「大和中納言」と呼ばれるようになります。
文禄の朝では一万人を率いて肥前名護屋に在陣し、普請役を担いました。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸
とはいえ、この時点でもまだ13歳なので渡海はしていませんし、本人が能力を発揮できることはそう多くなかったでしょう。
代理として渡海したのは、秀長の頃から引き続き仕えていた藤堂高虎でした。
翌文禄二年(1593年)8月になると、お拾(後の豊臣秀頼)が誕生しますが、秀保にはそこまで大きな影響はなかったと思われます。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
秀吉の養子となっていた兄の秀次が、豊臣秀頼の存在について気が気でなかったのに対し、秀保は秀長の養子=親族衆という位置ですので、直接的な不安は抱かなかったはず。
むしろ秀吉も、本家だけで豊臣が存続できると考えていなければ、弟・秀長の家だって重要になってきます。
そもそも身内や家臣団が少ないわけですから、秀頼を脅かすようなことさえなければ、秀保も大事な甥だったわけですね。
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