明治五年(1872年)7月11日、松江豊寿(とよひさ)が誕生しました。
後に板東俘虜収容所の所長になる方で、映画『バルトの楽園』(→amazon)の主人公でもありますね。
映画では松平健さんが演じてらっしゃいましたが、ご本人も洋風のヒゲと軍服が似合うイケメンだったようで、正装の写真が実にカッコイイです。
ただ、やはり映画は創作なので、実際の人物像からすると多少脚色されているみたいですね。
今回は史実の松江について注目してみましょう。
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会津で元藩士の子として生まれる
彼は今の会津若松市で、元会津藩士の家に生まれました。
映画では「会津藩の人々は斗南藩(現・青森県)に移住させられ、苦労したのを間近に見て育った」ということになっていましたが、実際には前年に廃藩置県で会津に戻っているため、見ていないということになります。
ただ、お父さんは実際に斗南藩へ行っていたそうですので、詳しく聞く機会はあったでしょうね。
会津藩士たちが直面した斗南藩での暮らしは生死に関わるほど厳しく、以下の記事にまとまっておりますのでよろしければご確認ください。
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
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16歳で陸軍幼年学校に入り、19歳で陸軍士官学校になるなど、順調に軍人としての教養を身につけていきます。
出世のスピードも遅くはなく、22歳で歩兵少尉になっているので成績は良かったのでしょう。
その後もあっちこっちで副官に抜擢されたり大隊長になったりと、冷遇されていたような節はありません。表向きは。
賊軍出身だから捕虜に優しい?
坂東俘虜収容所(徳島県鳴門市)の所長に任じられたのは、ドイツ人捕虜が日本に来た後=収容所ができるのとほぼ同時でした。
「賊軍側の家に生まれたからこそ、捕虜達を人道的に扱った」といわれていますが、維新後の生まれであることからすると「罪を憎んで人を憎まず」という感覚のほうが近かったんじゃないでしょうか。
他にも会津出身の収容所関係者はいたでしょうし、ここに来たドイツ兵たちがほとんど志願兵=一般人だったことも大きそうです。
陸軍士官学校のカリキュラムにドイツ語の授業もあったようで、松江自身がどこまで話せて捕虜達と直接意思の疎通ができたのかははっきりわかりません。
おそらくカンタンな会話はできたでしょうけども。
映画『バルトの楽園』では他のドイツ映画と比べて松江もドイツ人たちもかなりゆっくり喋っていましたから、あんな感じだったんでしょうか。
いずれにせよ松江がドイツ人捕虜たちを人道的に対応し、ドイツ人捕虜たちがベートーヴェンの第九を演奏したのは、戦時中の殺伐とした空気に潤いを与える話でもありますよね。
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